旅行・地域

Tibetへ⑥

1月20日。二度目の最終日の朝を迎えた。起きられるかどうか心配であまり良く眠れなかった僕は、6時の起床とともに再び強い頭痛を感じた。これで滞在の3日間、僕は高山病を克服できなかったということになる。バファリンと風邪薬を飲んで、もう一度アルベルトとお別れをし、6時35分に市内のバス停へ。この時間のラサはほとんど真夜中と言っていいくらい真っ暗である。

バスには前日空港のゲート付近で待っていた面々がきちんと乗り合わせていた。バスは暖房も入れておらずとても寒いので、僕はダウンジャケットのファスナーを一番上まであげて出発をじっと待った。バスは7時すぎにゆっくりと動き出し、ラサ市街から空港へ向かう。なぜか眠ることができなかったので、僕は窓からずっと外を見ていた。なぜかあまり遠くにいる気がしなかった。家々は古く、ほころんでいて、見慣れない造りをしているんだけど、なんとなく親密さのようなものがある気がした。やがて市街を離れてあたりが暗くなると、満天の星が見えた。小学生のとき、木曾駒ケ岳の山頂の山小屋で見たような、星をあたり一面にこぼしたような空だった。5分ほどのうちに流れ星が二つ見えた。

8時少し前の空港は前日キャンセルされた便の振り替えを待つ人たちで、早くも混雑の様相を示していた。指示に従ってカウンターに並んだものの、カウンターは9時まで開かず、そのあともチケットをもらうために長蛇の列を待つことに。結局飛行機が飛んだのは午後1時のことであった。

空港についてから、そして飛行機が飛び立ち、成都でお客の入れ替えを行い、北京に到着するまでの間、僕はずっと前日知り合ったノルウェー人のIととめどないおしゃべりをしていた。彼女は僕と同い年。高校はインターナショナルスクールに通い、18歳のときに1年間、インドでチベットから亡命してきた人たちを助けるボランティアの仕事を行った。それから大学に入って東アジアを専攻し、1年間の北京留学ののちラサにやってきて、そこで2年間を過ごしたのだそう。ノルウェー語、英語、ドイツ語、中国語、チベット語を話す、いかにも北ヨーロッパの国際派。

ラサで彼女が通っていた学校では、数少ない留学生のほとんどがどこかのメジャーな宗教の宣教師だったらしい。チベット仏教の影響をかの地から薄めるための中央政府の政治的戦略であるとのことだった。彼女によると、彼らはみんな「東洋の神秘にかぶれたクレイジーなやつら」で、宣教師でも何でもない彼女にとっては付き合っていくことが難しく、友達はほとんどチベット人だったらしい。”文化の違い”(多くの場合チベット人の友人たちは待ち合わせに遅刻したり、連絡も入れず平気で約束を破った)によって、彼女も最初はかなり大変な時期を過ごしたらしいけど、2年間を過ごした今では、ラサは彼女にとって第二の故郷と呼べるくらい、大事な場所になった。一度大学で運動会があったときには、留学生のマラソンランナー二人とフットボールが好きで運動が得意な彼女自身とを合わせてリレーのチームが結成されて、絶対に勝てると思っていたらしいけど、いざ走ってみると高地では思うように身体が動かず、走り終わった後の気持の悪さは二度と思い出したくないほどだったらしい。

特に興味深かったのは、彼女が国に帰る”理由”だった。3月の暴動後、彼女には暴動にかかわった嫌疑がかけられ、現地の警察に一度呼ばれることになった。そのときは特別なことはなにもなかったけど、その後しばらくして、彼女は自分のアカウントから発信されたメールが一切友人に届いていないことを知った。完全にマークされていたのだ。そして休暇で彼女が国に戻っている間に、彼女をチベットから退去させることがどこかで決定され、北京にあるノルウェー大使館の職員が、彼女がいない間に彼女の荷物をラサの住居から撤収した。本来もう一年あるはずのチベット留学は、実質的に追放のような形で突然終わったらしい。「あなたの隣に座っているのはチベットではテロリストだと思われている人なのよ」と彼女は冗談めかして言っていた。実際暴動に”関わったのか”どうかはよく分からなかったけど、彼女の口ぶりからは彼女自身が何の自覚もないままにすべてのことが決定され動いていたような印象を受けた。でも、どうしてももう一度チベットの友人たちに会いたい、ラサの状況を一目見たいという気持ちから、ツーリストビザを申請すると意外にも許可が下りたので、今回はそのための短期滞在だったとか。(ちなみに本国のメディアでチベットの状況について暴露した彼女の知り合いには、ツーリストビザも下りることはなかった。)彼女から見たラサは、変わっていた。街中のいたるところに銃を持った警官がいて、上を見上げるとどこにでも監視カメラが備え付けられていた。(僕はそれに全く気付かなかった。)街を歩くお坊さんの数も激減していた。僕が「今年は50年の節目なわけだし、また3月に暴動が起こると思う?」と聞くと、「あんな状況で何か起こせるわけがないじゃない。」と言っていた。

一方の僕は、アメリカ留学のことについて、僕の好きな音楽について、日本における女性差別への個人的見解について、高山病について話した。

北京の首都空港に着いたのは午後7時すぎ。僕は前日の睡眠不足を引きずりながら彼女とずっと話し込んでいたのでかなり疲れていたのだけど、空港のATMからキャッシングできないことが判明した。12月に東京から北京に戻ってきた時も同じことが起こって、3回チャレンジした後にカードを飲みこまれてしまったのでので、僕はそこでお金をおろすことをひとまず諦め、Iにお願いしてタクシーを相乗りすることにした。彼女は親切にも僕の大学のATMまでついて来てくれて、僕がお金をおろしたところまでを見届けてくれた。そこまでのタクシー代まで払ってくれた。僕は何度もお金を払おうとしたけど彼女はかたくなに受け取らなかった。彼女は「次は私がお金に困っている番かもしれないから」と言った。

それから8時半ごろ、僕はアドバイザーのJaneのところに行って、旅行前に預けた荷物を受け取り、明日の朝の東京行きの便まで自分が身をおく場所がないことを告げた。彼女は、僕のために一晩だけ寮の部屋を用意してくれた。それはアルベルトが数日前にチェックアウトした部屋だった。彼女は10月に僕のラップトップが突然壊れたときにも2週間ほど彼女のラップトップを貸してくれたし、本当に親切だった。僕は何度もお礼を言い彼女にも別れを告げた。翌日の朝5時。僕は再び寮をチェックアウトして東京に向かった。

-おわり-

PS.
こうして書いてみると、僕が非常時にどれだけ人にお世話になっているか分かりますw。でも、そんなときこそ、心に残る交流が生まれるのかもしれないですね。チベット旅行は身体的にボロボロで、そのせいで底抜けに楽しめる感じではなかったけど、それと対照的な目に見えるものの鮮やかさと(物理的にも政治的にも)厳しい環境に生きるチベットの人たちの顔は僕の心に深く深く刻まれました。
そして、なにはともあれ、僕は晴れて中国生活を終え、先週東京に戻ってきました。今後はブログのデザインも一新して、世界のいろんな出来事について学んでいこうという意思をもった一人の社会人として、相変わらずいろんなことを書いていきたいと思っています。今後もどうぞよろしくお願いします。

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Tibetへ⑤

1月19日。朝8時半に、また頭痛とともに目覚める。でも昨日よりは少しましになっているみたい。この日の午後北京行きの飛行機に乗ることになっていたし、バファリンと風邪薬をもう一回飲んで、なんとか乗り切ろうと決心。一方で、昨日なんでもなかったアルベルトも頭痛とともに起床。今朝は僕以上にひどそうだ。ただ症状が出るのが遅かっただけかw。

9時に予約を入れておいたはずなのに、朝食のルームサービスは9時半まで来なかった。僕らはその間、中国の特撮ヒーローものみたいなやつに見入っていた。なんとも形容しがたいんだけど、一番近い雰囲気は西遊記のドラマかな。最初はあまりの安っぽさにぼろくそに言っていた僕らであったが、少なくとも僕だけはちょっと暗くて(人が簡単に死ぬ)、かなり気持ち悪いストーリー(ヒーローの一人が敵を死に物狂いで倒した末に、狂って気持ち悪い獣になってしまったりする)のとりこになり、朝食が来たときもテレビにくぎづけであった。一方で、いざやってきた朝食のルームサービスはバターやマーガリンも含めて何も塗るものがないトーストが2枚に、卵一個だけ、フォークもナイフもなしだったので、非常にがっかりだった。

M_cimg1672 10時半に再びビャンバと会い、まだ見ていなかったジョカン内部へ。中は僕ら以外全員巡礼者なのではないかと思われるほど、外国人の姿が見えなかった。さすがlow season。ビャンバによれば、中には一年の大半をかけて、徒歩でこの寺にやってくる人もいるのだという。肌が黒いのは日焼けのためだけではなく、乾燥し貧しいこの地域では身体を洗うことが少ないためだ。念仏を唱えながら回っているチベットの人々に押されながら、一つ一つ部屋を見て回る。2階にはチベットの朝の強い光が何本かはっきりとした光線となって差しており、チベット仏教の中心であるこの寺の神聖さを増していた。

僕らは様々な仏像の中でも、身体が折り重なるように二つになっている仏像に(ある意味当然のごとく)興味をひかれた。横の壁にはあからさまに性行為を行っている仏陀の姿が描かれている。カトリックのアルベルトは、このあたりの描写に異文化のにおいを強く感じ取ったみたい。ヒンドゥーの神々の性行為にまつわる話もそうだけど、僕はアジア宗教のこういった露骨さと混沌に強い興味を覚える。処女受胎とは、対照的な世界観。

M_cimg1676 ジョカンの屋根の上からは、身を投げ出すように祈りを捧げる巡礼者たちと、昨日訪れたポタラ宮が見えた。M_cimg1674 空は相変わらず中国のどこよりも濃いと思われる青。建物の白と赤、そして金色のマニ車が青い空を切り取る景色はとても鮮やかで、同時にその色づかいは、明らかに僕が知る中国とは”別の世界”であると感じた。

その後ビャンバが推薦したレストラン(それは僕らが前日朝食をとったチベットポップスが流れているお店だった)にて、お昼御飯を食べながら、ビャンバと話した。ビャンバは、「今年はダライ・ラマ亡命から50周年だし、中国においては9で終わる年に何かしらの大きな出来事が起こっている。3月にはここで何が起こるか分からない。」とかなり意味深な発言をしていた。国際関係の学生だけあって、チベット問題にはかなり興味のある僕らが、さらに暴動についていろいろ聞こうとすると、「こういう話をするのはあまり良くないんだ。例えば街中のどこかてきとうなカフェで少しでも暴動なんか匂わせたらもうアウトさ。どこにだってスパイは潜んでいる。」と言ってこの話はすぐに終わってしまった。ビャンバがただ観光産業に関わる人間として暴動の大きなリスクを懸念しているのか、あるいは彼自身が何らかの形で運動に関わっているのかははっきりしなかったけど、とにかく興味深い話だった。

M_cimg1678 それから僕は、アルベルトと別れ、ビャンバに送られて空港に向かった。短いラサ滞在を終え、日本帰国前に一度北京に戻るためだ。僕の頭にはまだ鈍痛が残っていた。ナイキのショップまであるちょっと商業的なラサ市内と違って、空港までの1時間あまりの景色はちょっと壮絶だった。M_cimg1685 周囲は木が一本も生えていない岩山、そして谷の中心を走る、ものすごく青く澄んだ川。川には本当にたくさんのカモが泳いでいて、縁には乾燥地の木なのだろうか、赤い木が立ち並んでいた。今度来るときにはチベットの大自然を味わって、エベレストでも見に行きたいなと思いながら、車で流れていたチベットポップスに耳を傾けていた。

しかし。

旅はそうすんなりは終わらなかった。空港で3時間待った末に、北京行きの僕の飛行機はキャンセル。ラサ空港の窓からは風によって砂が巻き上げられて、周囲の視界が非常に悪くなっていることが分かったし、どうやら一度着陸することになっている成都の方も濃霧のため着陸に問題があったようだ。その日ラサ空港では、その他の遅い時間の便も全便キャンセルとなった。僕は翌日早朝の便で北京から東京に戻るはずだったので当然のごとくキレたが、職員にはほとんど相手にしてもらえず「とにかく明日の朝9時に戻ってきてください。」の一辺倒だった。

仕方ないので気持ちを切り替えて、臨時のバスでラサ市内まで戻ることに。ひとまず、宿はアルベルトがもう一泊することになっていたから同じ部屋に泊まれば良い、北京においてある荷物はアドバイザーにメッセージを送ってもう一日預かってもらえば良い、問題は北京から東京へのフライトをどう変更するかということだった。

運良く、空港からラサ市街へ戻るバスの中で、流暢な英語と現地語を同時にしゃべっている人を見つけた。ラサに2年間住んでいたというノルウェー人のIである。バスから降りると、僕は早速彼女に話しかけ、僕の状況を説明した。彼女は僕をインターネットカフェまで案内してくれて、翌日の朝7時に空港行きのバスでまた会うことを約束した。そして僕はそこのPCを使って、北京-東京間のフライトの日程変更を行って、親に帰りが遅れる旨のメールを送った。そして部屋でようやくアルベルトに再開したときには、とにかく疲れていた。

その後僕らは、前日と同じ洒落たレストランで全くチベット的ではないディナーを食べた。僕はスパゲッティボロネーゼ、アルベルトはチキンのチーズソース添えである。そしてホテルに帰ってきたあと、ようやく見つけたCCTVの英語チャンネルで都合よくチベットの旅行特集とニュースをやっていたので、それを観た。旅行特集ではアメリカ人のとてもクールでセクシーな女の子が、僕らが歩いたジョカンのバザールを紹介していた。ニュースでは、中国政府がチベットを厳しい階級制度と農民たちの苦役から解放して50年だと言っていた。僕らはどちら側にも一定の真実があるのだろうという結論に落ち着いた。その夜僕は翌日のことが気になって、そしてなぜかおなかが痛くなってあまり良く眠れなかった。そして、また将来のことについてくどくどと考え続けることになった。

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Tibetへ③

M_cimg15841月17日。午前4時前に社内が騒がしくなる。標高約2800mの小規模な新興都市、格尔木(ゴルムド)に着いたためだ。荷物を動かす音に起こされながらも、僕が睡眠の努力を続けているうちに、おじいさんも孫も、軍の学校に通う少年もみんな列車から降りた。ここを過ぎると、大きな駅は終着のラサだけになる。とはいえ、いつの間にか僕もかなり覚醒してしまったので、外に出て記念に写真を一枚。それにここからラサまでは、それまで可能だったデッキでの喫煙も禁じられるとのことだったので、一服しておく。早めの朝食に昨日半分食べて残しておいたチョコパンを食べた後、やることがなくなったので、もう一度就寝。

8時半に僕がまた起床すると、アルベルトはすでに起きていた。でも、あたりはまだ暗い。中国では国内に時差は設定されていない。それが同規模の国土で4つのタイムゾーンを持っているアメリカとの違い。だから、西へ行けばいくほど日の出と日の入りの時刻が遅くなるのだ。僕が二度目の朝食としてアルベルトからもらったメロンパンを食べているころには、地平線から太陽が昇り始めた。家並みからではなく、雲の下からでもなく、地平線から昇る太陽を見るなんて、たぶん生まれて初めての経験だった。空は緑がかった深い青から、少しずつ紺色に変わっていく。

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陽が昇ると、あたりの様子がだんだん分かってきた。列車はおそらく4000mを超えるであろう高原地帯を走り、昨日を通して変わらなかった灰色の街並みや荒れ果てた土地はすでにそこにはなかった。冬の間に、黄色くなった草原の中にたくさんの小さな名前の分からない動物が見える。M_cimg1594_2 空や湖はそれまでと違う青だ。

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同室の人が自分たち以外にいなくなった僕らは、本当にやることがなくなったので、景色の写真をたくさんとったり、読書を継続したりした。僕は、グレート・ギャツビーの語り手、ニック・キャラウェイのクールさにいつものように心酔し、村上春樹作品の主人公のひな形を見ているような気持ちになり、ギャツビーが、過去を変えることは「できるに決まっているじゃないですか!」という場面で、いつもと同じように感嘆して笑った。アルベルトも相変わらずガルシア・マルケスを読みながらたびたび笑っていた。

ひまつぶしに車内を歩いてみると、チベット系の人が多くなっている。彼らは、空気の薄い高原の強い太陽によって焼かれた肌を持ち、ある場合には一目でそれと分かる衣装を着ていた。それにどこから乗ってきたのか、あるいは最初からいたのに目につかなかったのか欧米人らしい旅行客の姿もちらほら。車両では、何度も耳障りな電子音がスピーカーから鳴り響き、僕らの読書や車内、社外の観察に水を差した。M_cimg1608

お昼御飯に車内販売のあまりおいしくない弁当を食べたあとくらいから、徐々に外には放牧されている家畜(主にヤク)の群れが見えるようになり、僕らがラサに近づいていることを知らせた。M_cimg1606 そして夕御飯を食べ終わるころ、社内がだんだんあわただしくなった。スピーカーからは、到着間近であることを告げる(?)チャイニーズポップス。乗務員が車内の清掃をはじめて、デッキにてなぜか禁止であるはずの喫煙を彼ら自ら始めた。列車の窓からは信じられないくらいきれいな川が流れているのが見えて、世界最高峰の山々から直に注ぐこの地の水が、中国ではおそらく最もきれいなものなんだろうと思った。M_cimg1622

ラサ駅はポタラ宮の様式を模した新しい駅で、静かで大きかった。僕らはそこで現地で僕らの入境許可を取得したガイドのビャンバと会い、市の中心であるジョカンの近くにあるホテルに向かった。彼はラサ生まれのラサ育ちで、英語はかなり上手かった。チベットにおける最大の産業である観光に携わるために努力して身につけたものだ。途中、ポタラ宮の前を通ったときに、ライトアップされた宮殿を撮影。ホテルは、客がほとんどいなくて、仏像がおいてある踊り場以外、廊下はほぼ真っ暗だった。M_cimg1628

それから僕らは、少し身体を高地にならすことも含めて、ジョカンの周囲にあるバザールのエリアを散策した。すべての街角に銃をむき出しにした警官が立っていて、去年3月の暴動以来の厳戒態勢を物語っていた。10人くらいの警官に阻まれて、通行ができない路地もかなりあるようだった。一方で夜のバザールはチベットの人たちの庶民的な親密さであふれていた。バザールには至る所に地元の若者たちがひしめくビリヤード場があって、女性は道で立ち話をしていて、子供は9時近くにも関わらず街の中を走り回っていた。M_cimg1631 M_cimg1633 僕が撮影した右の写真の子供たちは、僕らに犬を100元で買わないかい?と話しかけてきた。良くも悪くもいわゆる”観光地”のとても元気な子供たちといった感じである。デジカメで撮った彼らの写真を興味しんしんで見せてくれと言ってきたので、「大丈夫。君たちはハンサムだ。」と言っておいた。

ホテルに戻ると、お湯が出ないので、僕らはものすごく我慢して冷たいシャワーを浴びた。丸二日間列車の中で顔も満足に洗ってなかったし、パスするなんていう選択肢は存在しなかったのだ。その後僕はルームサービスでチベットビールを注文し、一人で少しだけ飲んでグレート・ギャッツビーの続きを読んだ。実際のところ年始に一度読み終えていたこの小説はこの夜また何とも形容しがたい結末まで進み、僕にいろんなことを考えさせた。僕は幸か不幸か、高校のときに初めて読んだこの小説を、ある意味ではより強い客観性を自分の中に見出しながら、同時により強い共感を感じながら読めるようになっていることに気づいた。人生ってやっぱり不思議だと思う。少なくとも、僕はこんな夜がいつか訪れることを予期できる材料なんて一切持ち得なかった。なんせ25歳で、ようやく”卒業”で、なぜかチベットで、スペイン人の友達が隣のベッドで寝ている状況で、僕が近い将来に30歳になるっていうのがどういうことなのか、1920年代のアメリカ小説を参照しつつ、考えをめぐらさなきゃならないんだから。それも誰に強要されたわけでもなく。

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Tibetへ②

1月16日。翌朝7時に明かりがともされると、車両が突然騒がしくなった。みんなトイレと洗面台に直行。長蛇の列。就寝・起床の合図にとっても律儀な乗客たちである。僕も寝続けられそうな感じではなかったので、北京のセブンイレブンで購入しておいたチョコパンを朝食として食べる。アルベルトが、水筒とコーヒーのパックを持ってきておいてくれたので、給湯器からお湯をもらってコーヒーも飲むことができた。彼は、セブンイレブンのチョコチップメロンパンが大好物らしく、それを3つも持ってきていた。僕が「これは”メロンパン”の一種で、日本では特に子供たちの間でとても人気なんだ。」と教えてあげると、「でもメロンの味はしない」と言っていた。僕はチョコがたくさん入っているせいじゃないかと言っておいたけど、メロンパンってはたしてほんとにメロンの味がするのかどうか実際のところ確信が持てない。

M_cimg1566その間も列車は走る。景色は単調、そしてなんともgray。大気の汚M_cimg1568染のせいなのか、単純に霧とか雲のせいなのか、見通しの悪い灰色の空と、乾燥して荒れた土地、そして古く地味な色調の建物が並ぶ。僕は依然訪れたドイツやスイス、フランスの田舎の風景を対照的に思い出す。どこまでも規則正しく植えられた畑、かわいらしい家々、鮮やかな山並み、湖。それに比べたら、なんて”貧しい”景色だろう。僕らは一度、まっ黒で湯気の出ている川を見た。The River Runs Blackである。

お昼前に、列車は西安に到着。そこで、ファッショナブルな若い乗客の多くが降りて、もっと地味な新しい乗客がやってきた。僕らと同じ部屋になったのは、確実にお金をそれほど持ってはいなさそうなおじいさんと多分その孫。そして軍の学校に通っているという、気さくな若者。孫はずっと”ゲームボーイ以前”と思われるような、ローテクなポータブルゲームに夢中になっていたけど、一方でどうやら僕らに(特にアルベルトに)興味しんしん。実際中国の一般人にとっては、欧米人はいまだに奇異な存在であるようだ。アルベルトはよく、北京の街中で突然写真を一緒に撮ってくれって言われたりしていたみたいだし。僕らの方をちらちら見ているので、僕がドイツブランドのチョコレートを分けてあげると、英語で話しかけてきた。僕らはそれに仰天。後でわかったことだが、彼は11歳の小学生。真赤な頬はいかにもステレオタイプな中国の田舎の子供といった感じだったけど、短い髪にはたくさん白髪が混じっていて、おじいさんと彼自身の身なりと併せて、なんだか貧しさを連想させた。だけど、彼の英語はなかなかのもので、彼自身「英語の勉強が好き」なんだと言っていた。このとき僕は、またもや日本の英語教育の非生産性がもたらす結果を憂いた。一方で、チョコレートをだしにして子供をあやす僕らは、戦後日本にやってきたアメリカ兵みたいだとも思った。彼はそれを本当においしそうに食べて、その様子を黙ってみていたおじいさんは、蘭州だか洛陽だかの駅で買ったパッションフルーツを僕らに分けてくれた。 M_cimg1574

その間にも、景色はあまりきれいとはいえない街と乾燥した土地を繰り返した。僕らは適当におしゃべりをしたり、本を読んだりして時間をつぶした。M_cimg1575 なぜか真剣にステレオタイプまじりでジプシー文化についての話をした時間もあった。「彼らは今だけを生きている。明らかにそのあたりの価値観が違うんだ」というのがひとまずアルベルトの見解。彼らはヨーロッパ社会において底辺層を形作り、超がつくほどの保守性と、教育やその他自己投資の意識の欠如、秘密主義的な独自の言語と慣習によって社会からたびたび侮蔑の目で見られるらしい。明らかに前提知識の少ない僕だったけど、彼らが社会の全体としての流れに捉われずに、独自の価値観で今を生きることができるなら、もしかしたら彼らは僕らより幸せなのかもしれないと思った。

M_cimg1614 アルベルトはガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録(?)」を読み、僕は中国まで持ってきていた唯一の小説、フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を読んだ。アルベルトは読みながらなぜかたびたび爆笑していた。僕はたびたび「ニューヨークってやっぱり最高だよな」とか「次に付き合う女性のイメージはやっぱりジョ―ダン・ベイカー」とか呟き始めて彼の読書の邪魔をしようとした。そして僕らが食堂車で晩御飯を食べるころ列車は西寧に到着し、10時の消灯のあと、今度は昨日より少し苦労して眠りについた。

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Tibetへ①

出発

1月15日。Take Home Examを気持ちよく終えた僕とアルベルトは、清華大学の外国人学生寮をチェックアウトし、午後8時に北京西駅へ向かった。目当てのラサ行きの電車は午後9時半に北京西を出ることになっている。それから約47時間かけて、僕らはチベットへ向かうのだ。

北京西駅はその名の通り、北京から西へ向かう多くの路線のターミナル駅。北京は中国の東北部にあるから、西の国境までは本当に遠く、進めば進むほど僻地になる。南西部にあるラサに着くと、僕らは中国をほとんど斜めに横断することになる。つまり僕にとっては、この旅は夏のアメリカ横断旅行の中国版ショートバージョンである。

M_cimg1555北京西駅は東京で言ったら、東北方面に向かう上野駅くらいの位置づけだろうか。中国風建築様式の巨大な駅で、一見したところたぶん新宿駅と同じくらいの大きさで、本当に立派。春節前の帰省ラッシュに入っている関係で、駅はとんでもない大混雑。人の多さに加えて、一人ひとりの荷物の量もはんぱじゃない。通路わきには、電車を待つ人たちがたくさん地べたに腰をおろしていて、テレビなどの家電の段ボールを引きずっている人もいる。高度成長時代の上野駅ってこんな感じだったんだろうか。

僕らはラサ行きの電車が出る10番待合室に向かった。10番プラットフォームではない。北京西駅では、各路線に待合室なるものが設けられており、切符をチェックされたあとで廊下を進むと、カーテンのひかれた大きなステージのある広間に出る。これからショーでも始まるかのような雰囲気。それから両側にカーテン、そして赤じゅうたんのひかれた廊下をさらに通過して、ようやくプラットフォームに出る。アルベルトいわく、「Soviet style」の構造。僕はとにかく、ステージ上から汽車でも登場しそうな雰囲気にさっそく度肝を抜かれた。この造りのおかげで電車に乗ることが必要以上に儀式的になるのだ。M_cimg1558

僕らの席は3両目の硬臥車。僕は最高級である軟臥車を希望したのに、チベットへの入境許可を申請するために代理店に連絡した僕らのアドバイザーがなぜか1ランク下の席を申し込んだためだ。車両は予想以上に清潔な雰囲気で、トイレ二つに洗面台が三つ、それに熱湯の出るタップもついている。アルベルトは三段の一番下、僕は真ん中のスリーパーだった。乗客も予想以上に普通な雰囲気。若いし、行儀も悪くないし、全体的には清華大学の学生たちよりずっとファッショナブルである。硬臥より安く、スリーパーじゃない普通の席の車両もたくさんあるので、貧しい人たちはそちらに乗るのだろう。

列車が動き出すと、僕らはマクスウェルのプログラムが本日のテストを持ってすべて終わったこと、そして旅の始まりをビールで乾杯。10時過ぎに車両が消灯されると、僕らはビールの勢いを借りつつ、睡眠不足を取り戻すかのように爆睡体制に突入した。

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Hopefully, on the road⑪

San Franciscoで旅の終わり

8月10日朝5:40。やってきた黒人職員に起こされる。「バスはもう動きだしますよ!起きてください!」床に寝ていたのは僕も含めて3人。よろよろと起きてひとまずいすでもう一度寝ようと試みたけど、急にせわしなくなってきたバスディポの固い椅子では寝れそうにもなかった。寝た時間は短かったけど、少し元気になった気がしたので外に出て歩き出す。7-elevenでフレンチヴァニラカフェを買って、大学院の自販で売ってたものの数倍の甘さにひるみながらSan Franciscoのノースショアに向けて坂を登り始めた。

Cimg1408 そのころには、次第に空が白み始めた。寒かったのでシャツ3枚の上にパーカーを着なおした。睡眠時間のわりに足は軽かった。Union Squareからトロリーが走る線路をたどっCimg1412 ていったのだが、そこには深夜歩いたSOMAで見た危険な夜の街とは全く別のSan Franciscoの顔があった。

丘の頂上まで登った所にあった公園では、数人の旅行者にもカメラマンにも見える人たちが写真を撮っていた。そこで撮ったのが右の写真だけど、なんだか数年前に住んでた目白のアパートの近くの公園を思い出した。そこからは新宿のビルが一望できたのだけど、いつか眠らなかった夜、明け方にその公園を訪れたことがあった。そういえば、あそこにも路面電車が走っていたなぁ。

Cimg1417 ロシア人地区にある有名な葛折りの坂道を過ぎて、フィッシャーマンズワーフに向かう。まだ朝6時すぎとあって散歩をしている人たちがちらほらいるくらいだった。そのまま、ノースショアの海岸を西へ歩いた。Cimg1431 朝のゴールデンゲートブリッジを見るためだ。

実際、Greyhoundのバスディポから、ゴールデンゲートブリッジを間近に見ることができる海岸まではかなりの距離である。でもバックパックをたびたび降ろして休憩しつつ、朝の海岸をゆっくり散策していくのは心地よかった。かもめの声や波の音がやさしく、サンフランシスコ湾は予想以上に澄んでいた。

Cimg1460ゴールデンゲートブリッジにはやっぱり靄がかかっていた。少なくともこの時期はいつもそうらしくて、できれば朝の早い時間に行くようにとリョウに言われていたのだが、やっぱり全体は見えなかった。でも、この海岸はとても気持ち良かったので30分くらい海や散歩する人、ジョギングする人を眺めてた。

Cimg1462 それからおそらく3時間ほど、ずっとノースショアの近辺の住宅街を歩きまわっていた。この街、ほんとうにきれいだ。たぶんヨーロッパとかでもSan Franciscoの北側ほど風情をもつ素敵な街を見つけるのはなかなか難しいんじゃないかな。朝飯も食わずにバックパックを背負ったままずっと歩けたのは、この街の日曜の朝のすがすがしさの賜物だと思う。ジャケットを着ていたり、マフラーをしている人もたくさんいて、夏の終わり、そして秋の訪れを予感。

フィッシャーマンズワーフに戻ったときには、観光客がたくさん集まってきていて、朝とは比べ物にならないほどの混雑。ひとまず非常におなかが減っていたので、屋台でカニを食べた。ケチャップとレモンがついてきた。ケチャップにアメリカらしさを感じる。カニは日本のものより塩気が少なくて、そして後で気づいたけど睡眠不足で僕の味覚が減退していたこともあり、日本のものより物足りなく感じた。そして昼食もシーフード。Cimg1468 海からパワーをもらうためだ。フィッシャーマンズワーフのイタリアンレストランで食べたこのパスタは恐ろしく美味かった。カニ、ムール貝、ソードフィッシュ、海老、ホタテetc.とにかく盛りだくさんで、この旅で食ったものの中で最高額を更新。でも僕はこんな豪華なものを食べているときにようやく自分の異変に気づいた。どうしても全部食べられないのだ。

それでも午後も観光を続けようと思い、海岸通りをダウンタウンのMarket Streetへ向けて歩いているときに公園を見つけた。少し疲れている気がしたので、芝生に腰をおろしているとそのまま睡眠に突入。日影が寒くなったので、日向の芝生に移動してさらに爆睡。気がついたら時計は午後4時になっていた。

スターバックスで眠気覚ましにカフェラテを飲んだころには体力はかなり回復。そして、なにしろ時間がない。僕は今夜深夜のフライトで、翌日の朝までにワシントンDCに戻る手筈になっているのだ。まだインターンが終わったわけではないのだ。そして意を決した17:30、最終目的地に行くため、ダウンタウンからバスに乗る。行き先はOcean Beachである。

市の西側に向かうバスには、アジア人が本当に多かった。運転手もそうだし、乗客の半分以上がアジア系。バスが進むにつれてその意味が分かった。西側の地域には、中国、韓国、そして日本の料理店がずらりとならんでいて、アジア人街のようなものが作られていた。西海岸の半島に位置するこの街。その西側に街を作ったのは、単純に彼らがアメリカにやってきたときの自然の成り行きなのだろうか、あるいは自らのルーツ、本国のある方向に本能的に身を寄せているのだろうか。バスで話しかけてきた白人のおっさんの話によると、彼の通っている教会にも日本人が二人ほどいるとのこと。彼自身、近辺の日本料理屋の常連客らしい。彼は空港までの行き方、ダウンタウンへの戻り方などもとても親切に教えてくれた。

バスに揺られること30分。やっぱりSan Franciscoは地図から想像するよりよっぽど大きいことを確認したところで、終点に到着。目の前は、大平洋だ!

Cimg1473 Cimg1483 時間は18:30くらいだったと思う。波は荒く、日はかなり傾いていた。延々と続いている砂浜で遊ぶ人たち、犬の散歩をしている人たち、ジョギングしている人たち。馬も走っていた。僕が目指していたのは、大陸の横断。大西洋側に位置するワシントンDCから、とにかく、このでかい国の反対側まで行ってはじっこを見ることだった。

防波堤から波打ち際までのおよそ100m。僕はほとんどプチ猿岩石状態。感動のあまり少し足ががくがくした。出発からわずか10日間。これだけ短い旅行で、これだけ一人で盛り上がれる旅行者は他にいまい。それでも移動した距離は数千キロ。タッチした海は少し冷たかった。

それからしばらく防波堤から海を見た。二隻の巨大な貨物船が夕陽の向こうに消えていった。向かう先はだいたい予想がつく。母国の日本、そしてこの秋訪れるもう一つの大国・中国だ!

―終わり―

PS.

そして僕は中華街でチャーハンとワンタンスープを10分ほどでたいらげた後、OAKから遅延した深夜1時の便でワシントンDCに飛んだ。帰りはおよそ4時間半。仮眠を取るには短すぎるくらい短いフライト。深夜にも関わらず、それを待つ人たちの行儀のよさに感心。そして帰ったマイホームは残ったジーチョンによって見違えるほどに汚されており、僕自身の身体と部屋の掃除のため朝10時からの仕事にもれなく遅刻した。インターン最後の5日間はとても眠くてあっという間だったけど、その間にコンビニとデリの見知らぬ店員たちから、「Are you from Thailand?」と突然尋ねられたことによって僕がいかに日焼けしたか、日焼けしやすいか、あるいはもともと東南アジア系なのかを考えさせられました。こんなことなら、次の旅行はいっそのことタイへゴーゴーしたいです。

そしてあと3時間後、日本へ発つ飛行機に乗るためにアパートを出る。この日を待ち望んでいたはずなのに、ほんとに寂しい気持ちになったことに自分でも驚いた。人は意識するせざるにかかわらず、自らの周囲のものを愛するようにできているのだと思う。移動が多いという意味では僕の大学院のプログラムはちょっとした旅だし、抽象的にはやっぱり誰の人生も旅に例えられると思う。いつか必ず、最終的には死によって、離れることが分かっているのに、いつも好きになる努力をし続け、好きになっては離れ続ける。モノとも、街とも、人とも。もともとアフリカで過ごすつもりでいたけど失敗し、セカンドチョイスだったワシントンDCでの夏。最高だったとは思わないけど、そのせいでこの国をもっと好きになってしまったことだけは間違いない。明日から3週間ほど日本をまた好きになった後で、9月半ばに北京に行きます。

Love, "Alone again or"

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Hopefully, on the road⑩

カリフォルニアで夜明けまで

Los Angeles行きのバスは、ひとまず僕が一度通過したPhoenixヘ向かった。そこでの乗り継ぎはまたもうまくいかず、深夜3時から1時間ちょっとの待ち。乗車後に眠りについたものの、このバス自体もなかなか目的地に着かない。目が覚めたのはカリフォルニアの砂漠のオアシスの街、Indio。次の停車地はエキゾチックで美しい小都市Riverside。次はついにロスかと思うと、また別のバスディポで小休止。そのたびにジャンボサイズの運転手が決して機敏とは言えない動作で、荷物をいじったり、発車後もバスのマイクを使っていろんなことをしゃべり続ける。「次のバスディポでは、入って右側に▽▽、そこから左手に□□、法律で許されている喫煙場所は、▼▼の区域だけになっています。ところで○○というニュースを先ほど小耳にはさみました。これは重大です。次のバスディポでぜひチェックしてみましょう。」という具合。最後には、お客の一人が皮肉をこめた拍手まで送った。バスは8月9日13:00過ぎに、Los Angelesのバス・ターミナルに到着した。

僕がこのバスの到着時間についてとても気をもんでいたのは、最終目的地San Franciscoの格安ホテルのシングルルームを予約済みだったからである。しかしここまでですでにバスはスケジュールより3時間ほど遅れていて、ホテルが営業中に辿りつけるのかどうか怪しいところだった。それに追い打ちをかけるかのようにLos Angeles13:15発のバスは満席のため次に乗るようにと多くの人が冷やかに乗車を拒否され、僕もその一人になった。

次のバスは15:30。San Franciscoまでは7~9時間かかるので、つくのはどうしても深夜になる。ここで僕は二つのミスを犯した。まず携帯の電池がなくなっていたので、携帯でホテルに電話を入れることができなかったこと。このたびでさんざん悩まされてきた頭痛が再発して、公衆電話で連絡を入れることすらやめてしまったこと。これが落とし穴への伏線になった。

バスは定時の15:30よりさらに1時間遅れてLos Angelesを出発。乗客はこれまで多かった黒人がとても少なくなり、大部分はラティーノだった。Los Angeles―San Franciscoという西海岸の大都市間の路線ともあって、白人もかなり乗車していたし、ヒッピー風の日本人らしき人も乗っていた。バスは20時ごろ、CA Junctionというまたもや荒野の真っただ中にあるBurger Kingに停まった。バスの待ち時間に昼もハンバーガーを食べたけど、他に選択肢がなかったので仕方なくまたハンバーガーを食べる。胃の調子もかなり悪くなっている。

ここである青年が話しかけてきた。白い肌に黒髪の長髪ということもあって、そのまま声と服装だけ女性にしたら、ほんとに女性になってしまうような見たことのないタイプの美青年だった。彼はAlbuquerqueからバスに乗っており、2年間音信不通だった友人に連絡がとれたために会いに行くのだと言った。インダストリアル系のプロミュージシャンらしく、「音楽やってるの?」と尋ねてきた。僕は大学のときにやってたけど、もうやってないと答えた。彼は1stアルバムを出したばかりとかでSan Franciscoでも演奏をやるようだった。ここでもそうだったけど、彼はてきとうにその辺の女性に取り入って、すべての飯をおごってもらっていた。「San Franciscoは初めてだって?間違いなく好きになるさ。」その言葉とともに、彼は奇妙に鮮烈な印象を残した。

8月10日午前1時前。眠りから覚めた僕の目の前には、初めてNYCを見た時のように感動的なSan Franciscoの夜景が見えた。バスを降り、夜の街を南に向けて歩き出す。

リョウにもらった簡単な地図から想像するより、街は意外に大きくホテルは予想以上に遠かった。それに、僕が歩いているSOMA地区はかなり治安の悪い場所であるとのことだった。1時間ほど歩きようやく見つけたさびれたホテルの扉は固くロックされており、予想に反してインターホンすら設置されていなかった。深夜2時、酔っ払いと浮浪者がたむろす街で、宿なしであることが発覚した。

止まったらまずいことになりそうだと予感した僕は、夜も比較的安全だと言われているメインストリートのMarket streetを見つけ、元来た道を戻りながら考えることにした。途中見つけたポルノ映画館で朝まで過ごそうかとも考えた。でも、ホモとかたちの悪い客がこわすぎたのでやめた。明かりがついていたHoliday Innのフロントで空き部屋がないか聞いてみようかとも思ったけど、ここまで来て一泊に100ドル以上を使うのは馬鹿らしい気もした。San Franciscoはこれまで回ってきた土地に比べて圧倒的に寒くて、野宿できそうな雰囲気もなかった。そんな中でも、開店しているバーやカフェで朝まで過ごすことが考えられなかったことが今では不思議である。

ぼろぼろの状態で2時間以上前に到着したバスディポまで戻ってきてしまった。2時間、それが途方もなく長く感じた。それでも、インフォメーション・デスクには人はおらず、待合室の扉もロックされていた。万事休すか、そう思ったところで中にいた女性から合図が。どうやら別に待合室に入れる入口があるらしい。バス到着口の側にある金属の扉には鍵がかかっておらず、彼女の導きで無事入室させてもらうことができた。彼女自身、朝までバスを待っている乗客で、そこには職員は一人もいなかった。とにかく、僕にとっては彼女は本当の女神だった。待合室には10人くらいの人がいたけど、ほぼ全員が寝ていた。つまり、見るからにとても安全そうな寝場所だった。

無音のまま流れているCNNのチベット特集をながめながら、フードをかぶる。椅子は固く、ライトがとても眩しいので、かげになっている通路で横になることに。床は冷たく、空気も本当に寒かった。なんせ外ではダウンジャケットを着ている人まで見たくらいだから。

でも寝場所を確保した安心感は大きかった。時計は朝4時近く。深く、どろんとした眠り。夢もみなかった。

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Hopefully, on the road⑨

Grand Canyonと別れ

8月8日。予定が一日ずれこんだけど、これだけは押さえておかなきゃ帰れないということで、Grand Canyon行きのツアーにも参加することになった。朝7時に起きて、二日間寝食を共にしたブライアンともお別れ。PhoenixからFlag Staffまで自転車で旅してきた彼も、今日から二日かけてGrand Canyonに向かい、そこでキャンプをするとのこと。そのあとは分からない。日本は安全で自転車での旅がしやすいこと、ベジタリアンの彼に合う料理もたくさんあることを告げ、ぜひ訪れるようにと伝えた。朝食後、イスマとも会った。彼は今日から車を借りてシカゴまで行く。ひとまずはコロラドでバンジージャンプするとか。もともとお金はすべて使うつもりできたし、これから最高の一か月を送ると言っていた。腐りそうだからスペインには帰りたくない、自分がいなかった場所にいるからこそ成長できると言っていた。彼こそ、本当に先には一切確定要素がなかった。彼のそんなスタンスにはかなり感銘を受けたし、僕もそんな旅を一度はしたいと思いつつ、無事を願った。

朝9時、リョウと一緒に集合すると、昨日のSedonaツアーにも参加したおなじみの面々。ツアコンも当然マイケルである。雲が多い空の具合を心配しつつ1時間半ほど車に揺られ、Cimg1358 Cimg1378 サウスリムへ到着したそのときにはちゃんと太陽が輝いていた。Grand Canyonについて今更語るのは気が引けるけど、視界がなんだかGoogle earthにでもなったみたいだった。白、赤の崖と、木が生えたなだらかな部分が本当に幾層にも折り重なっている。人類の歴史などはるかに及ばない長い年月をかけて、この地が深い海、浅い海、沼という風に何度も環境を変えてきたことの証。いつか、コロラド川がこの豊かな起伏をならして、一面をなだらかな盆地に変えるだろうとのこと。一番下にある黒い層は最も古い層で、そこからは脊椎のある生物の化石はとれない。グランドキャニオン最上の地層も古すぎるために恐竜の化石などは出土しないそうだ。

Grand Canyonの周囲にあるビュースポットのいくつかを周りつつ、極めつけは2時間のハイキング。ラバの糞でいっぱいの道をくだり、汗をかきつつ今度は登る。 Cimg1384途中レンジャーによって道が封鎖され、20分ほど立ち往生した。19歳の少年が近辺の崖から落ちて亡くなったらしかった。封鎖は夕立ちの到来とともに解かれて、ずぶぬれになりながら最後は坂道を駆け上がってバンに飛び込んだ。その雨のあとには、虹が見えた。Cimg1393

Sedona, Grand Canyonと二日続けてハイキングをした僕たちは、とても疲れており、帰りの車は本当に静かだった。ツアコンのマイケルですら疲れている様子だったけど、さすが名ツアコンだけあって、その雰囲気に合わせるかのようなレイドバックした選曲を展開。アリゾナの砂漠や、草原をかける馬をながめながら聞くPavementやAcross the universeはなんだかすごかった。

ホステルに帰りついたのは19時過ぎ。シャワーを使わせてもらって身支度を済ませ、リョウとともにまたタイレストランへ行き、またトムヤムクンを食べた。やっぱりうまい。その後もう一度ホステルに戻って、ソンと同じく韓国人の店員の男の子からラップトップを借りてバスのスケジュールをチェックした。最後までキャラクターはつかめなかったけど、最後まで親切な彼らだった。

夜22時前、Greyhoundのバスディポに行くと、そこにはツアーに参加した面々がそろっていた。ScotlandのイアンらはLas Vegasヘ。フランス人の彼もLas Vegas経由でソルトレイクシティーを目指すとのこと。僕もLas Vegasへは行くつもりでいたのだが、Flag StaffからVegas行きのバスに乗るのは非常に難しく、数日前からの予約制となっているために待っていても乗れない可能性があるとのことだった。流れでSedonaツアーに参加したハプニングもあったし、ここで僕はVegasを潔く諦めて、Los Angeles行きのバスに乗ることに。

ここで三日間行動を共にしたリョウともお別れ。彼はひとまずNew MexicoのAlbuquerqueまで行き、そのまま南部経由で東海岸のNYC, Boston,さらにはそこからChicago経由で西へ戻るとのことだった。彼とは自分の思うことをとりとめもなく自由にしゃべっていた気がする。そういうのはたぶんかなり久しぶりだったし、楽しかった。ほんとに無事と成功を願う。

Flagstaffでは本当にたくさんの出会いがあり、3日間過ごしたこともあって後ろ髪をひかれる思いだった。この小さくて静かでなんとなく不思議な街で、僕は最高に一人旅ならではの喜びをかみしめたと言っても過言ではない。世の中、ほんとに尊敬すべき馬鹿ばっかりだ。

バスは1時間ほど遅れて、8月9日0時過ぎ、Flagstaffを後にした。

Pavement, "Secret Knowledge Of Backroads"

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Hopefully, on the road⑧

Sedonaの赤に包まれて

Cimg1352 Cimg1350 8月7日朝7:00。携帯は電池切れでアラームも使えなかったのだが、自然と目が覚めた。外は快晴。今日はホステルが運営するツアーでGrand Canyonに行く予定。無料でふるまわれる朝飯のパンとりんごを食べつつコーヒーを飲んでから、集合時間の9時まで散歩しつつ、ホステルの周りの写真を撮っていた。

8時40分集合場所のフロントデスクに行くと、そこにいたリョウからニュースが。「Grandcanyonのツアーって明日だって。俺たちが名前記入した名簿の日付見たらやっぱり8月8日だったよ。」とのこと。さらには、「もうホステルのツアー以外のGrandcanyon行きのバスも出発しちゃってる時間だよね。」って。

なにー!!

その代り、本日はSedona行きのツアーがあるということで、ひとまずそっちになんとか参加させてもらおうという結論に至る。それについてはすんなりOK。予定は変更を余儀なくされたけど、Sedonaはなんとかして訪れたい場所のひとつだったので、すんなり気持ちも盛り上がる。

バスに乗り込むとき、いきなり「おはようございます」と話しかけられた。Scotlandから来たイアンである。彼は東工大に3か月ほど短期留学していたらしく、それなりに日本通。グラスゴー出身ということで、僕もUKミュージックの知識で対抗しようとグラスゴーのバンドの名前をあげようとしたけど、一つも挙げることができなかった。それでも、音楽は本気で話題になるので良い。僕はそもそも彼がScotland人であると最初からidentifyしてきたことに興味を持った。今スコットランドの独立への気運の高まりが新聞でささやかれているところだし。「独立すべきであると思う?」って聞いたら、「そこにいる彼女はEngland出身だからここでは言えないよ。いずれにせよ、スコットランドはベストさ。」とのことだった。同行者は他にも、いかにもイタリアンで陽気なルカ、スペインから来たこれまた陽気なイスマ、フランス人の名前は聞かなかったけど皮肉の利いたジョークが面白い彼、イングランドから来たどことなくYou似のかわいい娘、子供がかなり腕白なアメリカ人の親子、それに僕とRyo以外に、一眼レフをクールにたずさえる日本人大学生二人もいて、かなり充実したメンバーである。

イアンやリョウとの話で盛り上がっているといつのまにか最初のビュースポットについた。このとき、問題発生。朝ホステルの周囲を撮影していたはずのデジタルカメラがない。どこにもない。ホステルのツアコンのマイケルにお願いして問い合わせてもらったけど、なかなか電話にでないらしく不安が募る。

しかし、気を取り直して最初のハイキングを開始。今まで見たことのない赤い土。サボテンそびえたつ美しい赤色の岩山たち。マイケルのガイドも冴えわたり、テンションが徐々に上昇。長年の浸食のおかげで橋のような形になっている岩までたどりついたときには、気分はウキウキになっていた。

次は、川のほとりでお昼御飯を食べながら、水遊びをすることに。ここに行く途中で、僕のカメラがフロントデスクにて発見されたという報告があり、僕の盛り上がりは最高潮へ。僕とリョウは出発の15分前に参加を決定したので、他の人たちと違って水着は持ってきていなかったのだが、どうでもいいということになりズボンをまくりあげてそのまま川の溜まりにダイブ。飛び込みなんて久々にやったけど、本気で気持ち良かった。気持ちよすぎたので、何度も飛び込んだ。

それから、川辺から見えた先端がフォークみたいな形状になっている岩山へハイキングした。急な道ともいえぬ道をときに岩をつかむようにして上っていくと、約30分ほどで頂上へ。そこからはSedonaに点在するいろんな形の赤い岩山がきれいに見渡せた。このときの本当に晴れやかな気持ちはなかなか形容しがたい。僕は小さいころから親に連れられて多くの山を登ったけど、岩山をよじ上ったこともなければ、こんな色の景色は見たことがなかった。濡れていたズボンも2時間で乾かしてしまうような乾いた風と強い光の中で、僕はほんとに解放されてる気がした。Sedonaは世界に名を馳せるヒーリング・スポットであるとのことだけど、この鮮やかな自然のあり様それこそが、癒しの力なのではないかと思った。本当に最高だった。

ホステルに戻ってからは、同室のブライアンとリョウと一緒に近くのレストランにタイ料理を食べに行った。ハイキングと水遊びでほどよく疲れた体に、トムヤムクンの少し酸っぱいスープとぷりぷりしたエビが格別。

そのあと、Sedonaツアーの参加者であるスペイン人のイスマも合流して、4人でビールを飲んだ。イスマはアメリカに来る前の2年間、イギリスでバーテンをやって金を貯めながら英語を学んだらしい。「イギリスに行ったとき最初は英語の一言も出てこなかった。周囲のアジア人は自分よりよっぽど苦労していたけどさ。ヨーロッパでも南の方はダメなのさ。フランス、スペイン、イタリア。みんな英語がだめな国ばかりさ。」とのこと。彼のくだけた英語はパーフェクトで、もともと陽気なのであろう彼にとてもにあっていた。話題は、サッカー、なぜドイツ人は全員英語がうまいのか、スペインのトマトや水をかけまくる祭りについてなど。途中、音楽好きブライアンがイビザについて尋ねた。イスマいわく、「イビザは本気で狂ってる。俺はもう行きたくないよ。こわいくらいだ。行くなら週末1回だけにしておきな。そうでなければ戻れなくなる。」とのこと。これには、逆にイビザに対する興味を増長させられた。

その日、僕は最高に良い気分で眠りについた。観た夢は忘れもしない僕の人生で1、2を争う悪夢だったけど。なぜ、こんな日に・・・。

この日の写真はすべてリョウことりょうすけくんにお願いしたので、彼がアメリカ周遊から帰る1か月後くらいにはアップしたいです。この場を借りて、どうもありがとう。

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Hopefully, on the road⑦

長いバス、そしてFlagstaffへ

8月5日2:00pm過ぎ。トラヴィス・パークでまったりしたあと、バスディポに直行。チケットを購入した際に夜のバスを指定されてしまったものの、早めに列にならんだことによって3:30pm発のEl Paso行きのバスに乗ることができた。Greyhoundのバスはそもそも大幅に遅れることも多いし、時間の表示はあまり関係がないようだ。つまり3:30pmのバスには6:15amでも8:30pmのチケットでも乗れてしまう。ひとまずゲートの前にどれだけ早く行って並んでいられるかが勝負のよう。

滞在時間7時間。San Antonioを後にする。ここからのバスは本当に長い。WashingtonからAtlanta, AtlantaからNew Orleans, New OrleansからSan Antonioのバスは乗り換え込みで12時間から15時間くらいだった。これから向かう先は、アリゾナ州のFlagstaff。24時間かかることが見込まれている。

国境の街、El Pasoまでの11時間。バスはずっとTexasの荒野の中を走る。人家は一切見えないような山の稜線と地平線だけの景色が続く。途中休憩のため寄った荒野のまっただ中のデリの便所は、僕がこれまで入った数々の便所の中でも、もっとも陰気な便所であった。Tom Waitsに詩でも書かせたいくらい。昔、村上龍あたりが、アメリカの田舎は世界最高の田舎であるみたいなことを書いてた気がするけど、そう書きたくなる気持ちもわかる。東部から回ってきた僕にとっては、そのくらい壮絶な土地であった。

途中から隣に座ってきたメリッツァと話した。彼女のお母さんはメキシコ人。彼女自身はアメリカで生まれ育ったけど、お母さんからスペイン語を教わり、現在は英語とスペイン語の通訳をしている。彼女の飼っているオウムも英語とスペイン語で話すとか。バスの中で例外的に気品を放っていた彼女は、周囲のラティーノ、アメリカ人たがわず気を配ってよく話しかけていた。前日に旅行に行くことを決め、飛行機のチケットが非常に高かった関係でバスを選んだという彼女はこっそりと「もう一生こんなバスには乗らないわ」と言っていた。僕が日本語で書かれたルポルタージュを読んでいると、彼女は興味しんしん。彼女は僕に、「将来子供が生まれたら、子供には日本語を教えるの?」と聞いてきた。彼女にとっては、この奇妙な言語、世界のはじっこの小さな島国でしか使われていない不思議な言葉を子供に教えるのは単なるオプションであるように思えたのだろうか。彼女は言う。「この小さなバスの中もとても面白いわ。あの二人は男性が白人、女性が黒人でご夫婦らしいわ。赤ちゃんはハーフね。あそこにはインドから来た人も乗っている。私はメキシコ人とアメリカの白人とのハーフ。たくさんのラティーノ。黒人。そしてあなたは日本人。ここは本当に”るつぼ”なのよ。」と。そんな彼女は、人種的カテゴリーを越えてコミュニケーションできる2大言語というスキルと共に、オープンなマインドを育んできた人なんだなと思った。でも彼女のような育ち方ができる環境は、はたして日本で与えられるのだろうか。

日がかなり傾いたころ、地平線に少しずつ人工物が見え始めた。風力発電のための風車だった。巨大な風車が地平線の上に、まさに一直線に果てしなく並んでいた。僕の貧しい想像力は、ナウシカの巨神兵を想起させた。これが未来の風景なのかって想像するのは、たぶん前時代的に過ぎるのだろう。風車はよく、景観を美的に損ねることが反対の理由に挙げられる。でもこれだけ立ち並んだ景色は本当に圧倒的で、きれいだとさえ思った。しばらくして夕日が地平線に沈んだ。卵の黄身がくずれていくみたいだった。僕はほんとの地平線に太陽が沈むところをこれまで見たことがあっただろうか。

深夜2時前。うたた寝から目を覚ますと、目の前には広大な街の明かり。El Pasoである。ここで次のバスは遅れ、2時間待って朝の4時にようやく乗車した。こんな時間の乗り換えだというのに、隣に座った黒人の少年はものすごくテンションが高く、 席についてからしばらくして突然「What's up! Bruce!」と話しかけてきた。僕がブルース・リーに似ているとからしい。これでブルース・リー呼ばわれされたのは、ワシントンDCの街中で黒人に後ろから声をかけられたことと併せて2回目である。彼は「気にしないでくれ。俺はただ嫉妬しているだけなんだ。だってきみは女の子からBruceとhang outしたいって言われて、誘われまくってるに決まっているからさ!」と早口でまくしたてていた。メキシコからの不法移民をチェックするための検問を通過するときはさすがに静かだったけど、朝7時にマクドナルドでバスが休憩したときも、彼はすべての食べ物と飲み物をこぼしながらしゃべりまくっていた。良いやつだったけど、あまりに疲れていた僕はほとんど何も答えられなかった。

Cimg1342_2朝10時くらいだろうか。アリゾナ州Tucsonにさしかかるあたりから、景色に少しずつ変化が。サボテンである。そしてEl Pasoから8時間、バスは灼熱の砂漠の街、Phoenixに到着。ここでさらなる乗り換えだけど、体力的にはほぼ限界。外に少し出たときに、あまりの暑さと同時に寒気を感じて、そこからまた頭痛に悩まされはじめた。卵サンドとビタミンウォーターで体力の補給をしつつ、またバスへ乗り込む。ここから3時間、二つ目のバスストップが、次の目的地Flag Staffである。

PhoenixからFlagstaffまでの景色も壮絶である。巨大なサボテンが丘にひしめきあうような荒々しい光景から、一面に広がる草原に変わり、僕が1時間ほどうたた寝したあとは太陽は隠れて針葉樹林になっていた。到着直前、真黒な雲に覆われた森に、雨が降り始めた。そして8月6日3:00pmすぎ。バスはようやく標高2300mの小さな街に着いた。Route66が中心をつらぬき、旅人達が集う静かな街である。

頭痛を癒すため、残っていたバファリン2錠をバス停で売っていたホット・チョコレートで飲み込んだ。楽になった。Phoenixの圧倒的に乾燥した空気からは打って変わって、雨は降り続き空気は冷たい。この旅ではじめて折りたたみ傘を開き、道行く人に尋ねながらホステルへ向かう。

宿泊先は旅人の間ではそれなりに有名らしいDe Beauモーテル。Amtrakの駅のすぐ裏にある。部屋では、Phoenixから自転車で上ってきたというブライアンと早速仲良くなり、近所のアイリッシュバーに一緒にサンドイッチを食べに行った。彼は音楽、特に電子音楽が好きでもともと音楽学校に通っていたのだがそれを辞め、今は大学で人類学を専攻しているという。将来は開発の仕事をしたいとか。かなり近いにおいを感じる。当然音楽の話に華が咲いたけど、「一番好きなバンドを特定することは難しい」、「好きなジャンルを特定するのすら難しい」というとても納得できる合意にたどり着いた。彼は僕がこのたびで訪れたかったけどスキップした宝石と呼ばれるほど美しい街、New MexicoのSanta Feの出身であり、僕が「サンタフェは日本でとても有名なんだ。なぜなら日本で最もきれいな女優が一昔前にサンタフェで撮ったヘアヌード写真を発売してセンセーションを巻き起こしたから。」という話に大ウケしていた。

夜は、同じくホステルで知り合った日本人大学生のRyoを交えてブライアンと3人でビールを飲んだ。Ryoは西海岸から回ってきたらしく、まだ1週間だというのに、かなり英語がしゃべれていたことにとても感心した。途中ホステルで働いている韓国人のソンも混ざってきた。彼女は韓国でアートを学んでいるけど、アメリカに旅行に来てどうやら今は一時的にホステルで働きつつ、近くの大学にも通っているらしかった。

ホステルにはビリヤード台とジュークボックスのあるかなりクールな部屋があり、そこでは酒宴が行われていた。ジュークボックスの曲のセレクトはかなりイカしていたし、ホステルの従業員はビリヤードがやたらうまかった。僕は圧倒的に疲れていたので12時くらいに退散したけど、どうやらパーティは少なくとも3時までは終わらなかったようだ。

こうして長い長い1日をベッドの上で終えた。そのことが心から幸せ。

Creedence Clearwater Revival, "Have you ever seen the rain?"

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Hopefully, on the road⑥

San Antonioでの恍惚

8月5日朝7:00。定刻よりもバスは少し遅れて次の目的地、Texas州の南端に位置するSan Antonioに到着。日本人にはあまりなじみのない街だけど、メキシコ側からの移民の急激な流入によって人口が増え今では全米5位とか。Chicagoあたりの首をとる日も近いのではないでしょうか。

2時間は眠れたけど身体は重い。バスディポのトイレで急激に日焼けしてきた顔を洗う。ほんとに真赤。ひとまず1時間ほど朝の市街地を歩いた。

Cimg1306 Cimg1309 San Antonioの名所と言えば、アラモ。メキシコからの侵攻をこの砦に籠城して防ぎ、圧倒的な少人数で相手を追い返したことが今のアメリカの形にもつながっている。英雄のひとり、Travis将軍は街にその名を冠した公園もあるし、通りの名前も英雄たちからとられているようだ。そしてもう一つが右側の写真リバーウォーク。ダウンタウンには水路が縦横に走り、両側が花壇やカフェなどによってとてもきれいに整備されている。アメリカ南部のヴェニスとか呼ばれているとか。水があればどこでもヴェニスと呼びたくなるほどヴェニスってすごいのかー、行ってみたいなーとも思うけど、実際San Antonioのリバーウォークも独特の趣があってかなり良い。アラモはバス停から近いし、街中には分かりやすい地図がたくさんある。リバーウォークはいろんなところを通っているので、地図なしのバス旅行者にとっては観光もかなり楽。

腹が減ったので、てきとうに歩いて見つけたリバーウォーク沿いのスターバックスへ。Cimg1339 Cimg1317 左はリバーウォーク側から見た外観。ものすごく溶け込んでいるし、作りが非常に凝っている。しかも音楽をfeatureしている店らしく、かなりの量のCDが店頭にある上に、一階には各席に音楽の試聴機が並べられている。バルコニーもとても気持ち良くて、ここでこの日記を1時間くらい書いた。たぶんこれまで訪れた中でベストなスターバックスです。

その後朝9時の会館を待ってアラモをさらっと見学したあと、San Antonioの街をリバーウォーク中心にぐるりと回ってみた。太陽はまさに全開。睡眠不足のおかげでバックパックが本当に重く感じる。そこでひとまず行きついた教会の広場にて休憩。まったり。

すると何やら広場の管理者らしき人たちが機材の設営を開始。ほんとに動きたくないしNew Orleansで街中で音楽を聴くことに味をしめたこともあり、1時間くらい設営の様子を見る。Cimg1327 そしてようやくはじまった音楽はラテンジャズ。らしい。キーボードとマラカス、そしてボーカルだけの編成でパワー不足な感じもしたけど、ボサノヴァみたいな曲が平日午前中の公園にかなり優しく響く。道行く人たちもなかなか気持ち良さそうだし、広場でやることがなさそうなおっさんたちがいきなりYeahとか反応し始めたのも良い。僕も最前線になってしまったのでYeahと返す。紹介によると、街の広場の活性化のために平日は毎日お昼の時間に演奏をするらしい。日本も演歌とか、できればゆずとかそういう方向性だけじゃなく、日常にさらっと寄り添うようなストリートミュージックがあれば、それだけで街がもっと輝くはずなのにと思った。

その後、メキシコ国境にほど近いことにちなんで、メキシカンのカフェに入る。選んだのはビーフのファヒータ。メキシコ料理は、おそらくアメリカで一番人気のある料理だし、基本的に外れはない。Cimg1329 たぶん日本でチェーン展開できるくらい簡単でフォーマットが整ってて味も安定させやすい料理なんじゃないかな。リバーウォーク沿いのオープンカフェなので、食べているとアヒルが。Cimg1328 僕は基本的には心がきれいなので、動物にとても好かれるのだ。道行く人からYou got a friend!とか言って冷やかされたけど。いずれにせよここの川のアヒルは人にとても慣れているので、一度マークされたら振り切ることはほぼ不可能。つついてくるのでくちばし嫌いの人とかは餌をあげたりしないでください。ちなみに、僕はあげました。マークはそのせいです。

Cimg1337 ごはんを食べた後は賑わってきたリバーウォークを散策しつつ、今朝訪れたスターバックスに戻った。実は朝からずっと気になっていたものがあったのだ。

それは、

The Traveling Wilburys, Vol. 1 Music The Traveling Wilburys, Vol. 1

アーティスト:The Traveling Wilburys
販売元:Rhino
発売日:2008/06/03
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どうやら再発されていたようです。レジにてこれだけ持っていき、「コーヒーは要らないです。」と言ったら、なぜかレジの女の子にぷって笑われた。たしかに僕のこの行為につっこみどころはたくさんあると思います。

その後、完全に体力が尽きたため、トラヴィス・パークのベンチで1時間ほどまったりした。2時間の睡眠と強い太陽の組み合わせはとってもサイケデリックである。テキサスを過剰に意識していたこともあり、朝からずっと頭の中で彼らのトゥク、トゥクが止まりませんでした。Wilburys、関係なし。

13th Floor Elevators, "Thru the rhythm"

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Hopefully, on the road⑤

ルイジアナ、テキサスの夜

New Orleansを出てから2時間弱。Louisianaのこぎれいな都市、Baton Rougeにてバスは休憩。近くのガスステーションに買出しに行ってバスの席に着いたあとで、ちょっとしたドラマを見た。バスが出発するはずの21時。ほぼ全員が席に座っているように見えるが、動き出すそぶりはない。窓の外を見ると、ラティーノ4人組がいる。どうやらその中の一人がバスに乗るようだが、なかなか別れられずにいる様子。おそらくルックスからは友達同士だと思われる女性三人がhugし合い、その中の一人の夫だと思われる男性はそばでやるせなさそうに立っていた。そのうちに、女性二人が号泣。数十回とhugとキスを繰り返しても、友人の女性をどうしても行かせようとしない。

これがラテン版、女の友情なのだろうか。外でそばに立っていた黒人の男性職員までもがもらい泣きしているのか目をぬぐっていたのがなんとも微笑ましかった。最後に女性三人がバスの中まで上がってきて同じことを3回くらい繰り返したあとでバスは出発。おそらく20分くらい待っただろう。乗客はみんないかにも金のなさそうなマイノリティばかりだけど、野次の一つすら飛ばさなかったことにも感動した。同時に、今のご時世に今生の別れのような、あれほど劇的な別れがあるのかって思わされた。バスがTexusに向かっていることを考えると、おそらく女性は一人中米のどこかの国へ帰るのだろう。でもバスで向かえる場所ならば、その気になれば会える距離だ。それにインターネットだってある。でも、物理的に離れること、直接話をしたりhugしたりできないことはそれほど重要なことなんだろう。

ダイレクトな人間関係の良さみたいなものを考えさせられたし、正直ちょっとうらやましくもなった。僕はなんせ1年住んだアメリカを発つ前だと言うのに、日本食のことばかり考えていたから。おそらく昨晩よく寝たこともあって、それからいろいろなことをとめどなく考え続けてしまい眠れなくなった。

それから4時間。眠れないバスの中をずっと動き続ける影があった。さきほどとは別のラテン系の女性だった。彼女は通路をまたがって二人の子供を連れているので、せわしなくずっと様子を見てやっていた。次の休憩のときにようやく気がついたけど、彼女自身座ってすらいなかった。自分の座るべき座席の隣に赤ん坊を寝かせた籠を置いているので、この長時間ずっと中腰のような姿勢でいたことになる。彼女は英語もしゃべれないようで、他の人にしきりに頭を下げて邪魔にならないようにしていた。僕はこういう圧倒的な母性にめっぽうよわい。

僕はラテン系の女性に対して総じて良い印象を持っているけど、これらの件でさらに株が急上昇した。

Hustonでの乗り換えは深夜2時。スムーズだったけど、全く寝ていなかったので辛かった。ニュースではハリケーンが近づいていること、昼には間違いなく大雨に見舞われることが伝えられていた。そんな悪いニュース以上に悪いのがバス停の雰囲気。これまでも感じてきたけど、特に深夜の時間帯のバス停には経済大国アメリカの面影はゼロ。どういうわけか周囲に75セントをせがみ続ける黒人男性。Fワードで構成された一人言も止まらない。彼はまだしも、身体を何日も洗っていないと思われるラティーノの男性のにおいが辛い。さらには、こわいくらいにやせて顔までこわくなっている白人女性が骨が鳴ってるような音を立てながらきびきびと動き回る。外でタバコを吸えば、間違いなくせがまれる。

深夜3時。ようやく乗り換えのバスに乗れて、席がとっても広くなった。運転手はここからSpanish speakerに変わった。それからようやくしばしの睡眠。

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Hopefully, on the road④

New Orleansの平穏

8月4日。Louis Armstrongの誕生日。朝起きてシャワーを浴びているうちに同室の人はいなくなっていた。8人部屋なのに客は2人。彼は僕が眠りにつこうとしているくらいの時間に帰って来てHiと挨拶しただけで、結局顔も見ないまま別れてしまった。ホステルにはそれなりに交流を求めて泊まったのだけど、まあこんなものか。

Canal Streetにあるシェラトンのスターバックスで朝食代わりのケーキをいただきながらこの日記を書いた。このとき流れていたSupremesのYou can't hurry loveを聴いてやたらテンションあがったことを覚えている。それだけ気持ちが良い朝だった。

そのあと、実は昨日の朝も訪れたLouis Armstrong Parkに行ってみた。 また閉Cimg1246まっている。誕生日なのに。近くで奇声をあげていた黒人女性に聞いてみたところ「Satchimo Festivalだから閉まっているのよ。」とのこと。いや、サッチモは昨日終わって、僕は実際その祭に参加してたんだと言ったら、「でも、いつも閉まってるわけじゃないわ。ところであなた1ドル持ってないの?」という具合。つまり、いつも開いてるわけでもなければ、いつも閉まってるわけでもないということになる。それにしてもそんなに開けておくとマズイのだろうか、あの公園。たしかに周囲はやることがなさそうな黒人がぶらついたりしているけど、Atlantaのゲットーみたいなやばそうな雰囲気はない。それはおそらくこの街のゲットーが小さいとか比較的平和だとかそういうことじゃなくて、このフレンチクォーターから離れた別の場所にあるっていうことだろう。New Orleansのダウンタウンはそういう意味でかなり安全であるという印象を受けた。

Cimg1277 サッチモ像をあきらめ、てきとうにぶらぶらしたあと、昼飯を食いに昨日Time is on my sideを演奏していたフレンチマーケット近くのオープンカフェに入る。ここで注文する料理を迷っていたら、ザリガニのガンボを試食させてくれた。とても濃厚で、めちゃくちゃうまい。この街に訪れたらぜひ食べてみることをお勧めしたい。一方の僕は、せっかく味見をしたのだから別のものを食べようと思い、なぜか普通にジャンバラヤを注文。辛いけどうまかった。このカフェにはアリゲーターのフリッターとかもあるし、バンドもいいのでほんとにお勧めである。名前はチェックしなかったけど、Decator通り沿いで、広場が隣接しててお土産屋さんと並んでいるカフェなので、行ったら普通に見つかると思う。というかこの観光客向けっぽいスタイルだと、地球の歩き方とかには間違いなく載ってると思う。

その店の店員にLocalなMusic Storeがどこにあるのかを尋ね、New Orleans音楽でも記念に買おうと思いCD屋に向かう。その店員に教えてもらったところには古本屋しかなかったけど、また別の人に聞いて見つけた。Louisiana Music Factory。いかにも地元の音楽好きっぽいおっさんのコンビが経営している店である。一階はすべてNew OrleansもしくはLouisiana音楽に占拠されている。僕はここで計30枚のアルバムを試聴してみたのだけど、どうにもぴんと来ずに買うのをやめた。ブルースもケイジャンをアレンジしたような音楽も、プロダクションは今っぽいし、なんだかどうしても軽い印象。ジャズはちょっとクラシックすぎるし、買ってもおそらくたまにしか聴かないだろう。いずれにせよ、Dr. Johnの地平ははるか彼方でした。

Cimg1223 そのあと川沿いの水族館に行ったのだが、月曜日で閉館。仕方がないのでその近くにあるカジノにひまつぶしに行く。中はとってもゴージャス。Cimg1284 写真は撮れなかったけど、セクシーな格好をしたほんとにセクシー系美人のお姉さんがカクテルを運んでいるのがテンションあがる。ひとまず最もやり方が簡単そうなスロットに行き隣の人の様子を観察。ふーむ。

挑戦はどうやら5ドルから。でも5ドル札が見つからないので、10ドル札を仕方なしにいざ投入。途中色の違う7が揃ったかなんかで1ドルをゲットしたものの、僕の残高はものの2分のうちに無事0に到達。なんのドラマもなく、10ドル札はミシシッピ川のもくずとなった。つ、つまんねー!と思いつつ去ろうとすると、実は僕の挑戦した台はHOT 40なる最近当たりの出ている台だと判明。しかし、どうやら熱かったのは昨日までだったのではないかと冷静に推測し、あっさりと出る。

実際、カジノの良いところはトイレがきれいなところぐらいである。僕の好きな土手にあるトイレは普通の神経では使用不可能なくらいやばいけど、そこから500mほどにあるこのカジノの便所は別に用がなくても座りたくなるくらいぴっかぴか。よほど搾取なさっていると見える。

Cimg1262 そのあとは、昨日ベリー・レイと会った土手でのんびりミシシッピ川を見てた。1時間半くらい眺めてた。そのときがこれまで1年間の時間の流れとは明らかに違うと実感したときだった。これぞ旅のぜいたく。

そのあとは、フレンチクォーターにあるアートギャラリーを一瞥しつつ、5時前にバス・ディポに向かって歩き始めた。まだ青い空がのぞいている時間なのに、すでに通りにはエッチな下着姿のお姉さんが客引きをしていた。これを期待して通ったわけなんだけど。ぜひ今度また行ってみよう。

Cimg1291 バスディポのサブウェイでチキンサンドを食ったあと、また一路西へ。バスの搭乗時間の19時に外はまたも滝のような夕立ちとなった。バスはかなり気に入ったこの街を出て、インターステイトへ。湖のど真ん中を、沼の中を抜けていく。そのうちにゆっくりと晴れ上がって、夕焼けとなった空は本当にでかかった。Cimg1299 この空のでかさは、周囲に何もないこともあるかもしれないけど、ずっと先まで大地が続いてるっていう頼もしさのせいなのかもしれないとも思った。この旅に出て良かったなーとこのときつくづく実感し、なぜか山登りしたいと思った。思いつくところではキリマンジャロあたりに登ってみたい。きっと、親父に聞いたら山をなめるなって怒られるだろう。

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Hopefully, on the road③

New Orleansでの興奮

8月3日。Alabama州Mobilでの乗り換え以外、かなりの勢いで爆睡した僕は予想以上のコンディションで朝を迎えた。バスディポのトイレで顔を洗い、外に出るといかにも南部らしい強い朝日にわくわくする。New Orleansだ!朝7時で特にやることもないので、フレンチクォーターとリバーウォークあたりを散策し、写真をたくさん撮った。

Cimg1224 Cimg1237_2 そして朝9時ころcanal streetで朝マック。ゆっくりと一時間くらいかけてこの日記を書く。ワシントンから1時間ずれているということに、ようやくこのときに気づいて時計も修正した。

Cimg1244_2

その後朝11時にMarquette Hostelまで行き、チェックインを済ませる。一泊20ドルちょっと。日射病みたいになるほど汗をかいていたのに昨日はバスで寝たため、待望のシャワー。全身洗うとほんとに心まできれいになったような気になる。今夜2日ぶりにベッドで眠れることもなんとも心強い。

その後僕はニューオリンズについてもガイドブック等を持っていないため、てきとうにホステルの中庭にいた人に話を聞いて、簡単な地図もゲット。ひとまず、フレンチクォーターの”ガンボショップ”でご当地ランチを食べることに。

ガンボショップでは「何かお勧めありますか?」と聞いたら、「このあたりのガンボね。」といわれ全体の半分くらいのメニューを指示された。そもそもガンボって何なんですか?そんなにいっぱいあるものなの?っていうレベルの僕なのだが、ガンボショップに入店しておいてそこを尋ねるのは失礼な気がしたのでなんとかコンビネーションという二つの味が同時に楽しめるやつにした。これ。

Cimg1252 片方は豆。片方はエビ。で真ん中あたりにジャンバラヤ。これがなかなかイケる。特にエビの方はスープがとっても濃厚で、やっぱりフランス料理の影響を感じる。

その後、U.S. old mintというところにジャズを聴きに行った。何でも8月4日がLouis Armstrongの誕生日(彼はニューオリンズで生まれ育った)ということで8月1日から3日まで”Satchmo Festival”なるフリーの野外フェスが行われているとのこと。そこでは炎天下の中、異様な盛り上がり。Cimg1261 地元密着型フェスなので、もちろんニューオリンズミュージック素人の僕が名前を知っているような人は出ていなかったと思われるが、本場仕込みとあってさすがに演奏のレベルが高い。そしてやはり客の年齢層も微妙に高い。やはり若者のメインストリームはヒップホップとかなのか?ちなみに僕の個人的なヒットは、ものすごく歌唱力のある女性歌手(全員だけど)がうたったI will surviveでした。超グルーヴィーで、おばさま方が一斉に踊り出しました。

http://www.youtube.com/watch?v=Xv6lHwWwO3w

この界隈はバンドがいるカフェもとても多くて、歩きながらどこからともなく聞こえてくる音楽が非常に良いCimg1258。フェスでかいた汗を乾かすために入った超有名らしいCafe Du Mondeでもおつきのバンドが。 このバンド、アジア系の女の子のヴァイオリンの音色がすごく良い。てか写真右側でまったり聞いているのは店員さんなんですが。ここの店員は客前でまったりしすぎなのではという懸念がありました。

その後、フレンチ・マーケットでぶらぶらしつつ数珠の腕輪を買ったり、どっかの生演奏でRolling StonesのTime is on my sideをやっててそれがすごく良くて聴き惚れたりしていたのだが、それにも疲れたので休憩がてら土手へ。

ここで隣でビールを飲み始めたおっさんと座り話をした。おっさんの名はベリー・レイ。元アリゲーターのブローカーで、今は退職をしたのでテレビを見たり、わざわざ土手まで来てビールを飲む毎日を過ごしているとのこと。わに革貿易の仲介人ってことか。いろいろてきとうに話をしたあと、「僕も将来、貿易にかかわる仕事がやりたいんだ」と言ったら、「きみは一見したところ、非常に賢そうだから成功する。」と言われた。「なんせ、international educationを学ぶくらいだろ?」って。いや、international relationsですという声は全く届いていなかった。僕はそもそもinternational relationsっていう専攻の発音がとても苦手である。"internal relations?"とか言われて、数回聞きなおされる。だが、おっさんは実のところ耳が悪い。僕の名前を3回くらい言ったのに、「トーレス?!トーレスって言うんだな?!星みたいな名前だな。最高にクールじゃないか。」と発言。そんな名前の日本人いるか。おっさんには最後にこう言われた。

「日本にはかわいい女の子がいっぱいいると聞いている。ベリー・レイからよろしくと伝えておいてくれ」と。

僕からもよろしくお願いします。

夕方、もう一度Satchmo Festをのぞいたのだが、すぐに体力が尽きたのでひとまずホステルに退避。チキンサンドとバナナを食べつつビールをいただく。ホステルの中庭でこのときあったおっさんが実はAtlantaからのバスで僕の後ろにずっと座っていたことが発覚。It's a small world!とか言って盛り上がりを見せ始めたが、僕にはこの日おっさん的な要素は十分なような気がして、トークもほどほどにもう一度街に繰り出した。夜のバーボンストリートを見るためである。

Cimg1267 バーボン・ストリートはバー・ライブハウスが7割、残りの3割がストリップという歓楽街。ベリー・レイいわく、この通りは完全に観光地化しており、ビールの値段は地元のバーの2倍。ミリオネアでもなければ行って楽しいところじゃないといわれたけど、ひとまず押さえておくべきなのではと判断した。ひとまずPreservation of Jazzというバーに入ってビールをいただく。

Cimg1269 ビールは一杯$7.75。やっぱり高い!ここは演奏はうまいし、品も良いのだが、一方で客の入りがとっても悪かった。日曜日、そしてまだ22時ってこともあったのかもしれないけど。それでも超盛り上がっている他のロック系のバーに比べたら非常に地味。とりあえず、ジャズバーのカウンターに座ってビールを飲む自分という構図にだけはたっぷり酔いつつ適当に退散。

その後、この界隈をぶらぶらしていたのだが、さすが悪名高いといわれる通りである。ストリップの入り口では、とてもエッチな下着姿のお姉さんたちが外まで出てきて客引きをしている。子供づれの観光客の対応が観ていて面白い。また、バーボンストリートのバーは基本的にストリップ以外は、窓が開け放たれていて、中がのぞけるとともにちゃんと音楽を確認してから入れることがとても良いと思った。Thin LizzyのBoys are back in townとかをやってるバーに入りたくなったり、Blue Mondayが流れているストリップに非常に惹かれたりしたのだが、てきとうに流すだけにしておいた。ロック系のバーに関しては、トラディショナルなジャズなんかをやってるところに比べて、音がいやに厚かったり、ボーカルの味にかけたりしていて、どうしても軽く思えた感があった。その点、ポップさと上品さのバランスが非常に良かったように思えたのが、Funky522というファンクのバー。Let's get it onってやっぱりいつ聴いてもテンションあがります。

ということでホステルに戻ってきたら12時少し前。1か月ぶりくらいにビールを飲んだので胃のむかつきを覚えながらも深い眠りについた。そんな夜。

The Band feat. Dr. John, "Such a night"

http://www.youtube.com/watch?v=Yu4Fg5Me-z0

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Hopefully, on the road②

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Atlantaでの日射病

8月2日13:00。Atlantaに到着。ここが最初の目的地である。着いたは良いものの僕はガイドブックどころか地図すら持っていなかったので、バスディポを出てうろうろしているとさっそく黒人ホームレスのTreyにつかまる。彼は地図があるところまで僕を連れていき、アトランタの見どころがどんなところにあってどうやって行けるのか一通り教えてくれた。時間がないことを伝えてしまったので、「それなら俺が一日お前のガイドになってやる。」との申し出。いらん。でもけっこうしっかり説明を聞いてしまったのでひとまずお札に1ドルチップを払って別れようとした。そしたら「これじゃあホットドッグも買えない!そこの店は3ドルするんだぞ!」とちょっと苛立ちながらくらいついてきた。これは怒らせたらまずそうなタイプだと判断し、3ドルせがむところをもう1ドル払って手を切る。もうお金は一切払うまいと心に決めるには良い洗礼だった。

ひとまずTreyの教えてくれた通りCentennial Olympic Parkまで行き、昨晩慌てて作ってバックパックに入れてきていたシャケのおにぎりを食べる。う、うまい。自分のおにぎりの才能に脱帽。

Cimg1196 Centennial Olympic Park-96年のアトランタ五輪の広場。開催中にテロが起きた。

その後The world of Coca ColaとCNN centerという世界企業の本拠地さながらの名所を訪れようとしたのだが、どちらも土曜と言うことがあり、見学には長蛇の列。僕にはそれを待っている余裕はない。そこで趣向を変えて、Martin Luther King Jr.の記念地区へ行くことに。

売店でもらった地図をもとにCentennial Parkから歩いて行ったのだが、ダウンタウンの東側はお世辞にも治安がいいとは言えなかった。公園はホームレスに占拠されているし、道を歩いていると黒人住民のほぼ全員が何かしら声をかけてくる。崩れかかった家も点在。典型的なゲットーってやつだ。King自身はおそらくそれなりに良家の生まれなのだろうが、こんな地区で生まれたのかと興味しんしん。Cimg1205

高速道路の高架近くにある崩れかかった家。

Kingの記念地区にあるVisitor CenterやFreedom Hallを回ったのだが、そこを訪れている客も8割は黒人だった。白人はほんとに数人、ラティーノすらそれほど多くない。これって黒人がそれなりにツーリズムできる時代になったっていうことなのか、あるいは白人にとっては未だに精神的に少し敷居が高い観光地なのかよく分からなかった。

Visitor Centerでは30分くらいのショートフィルムを見た。Kingの生涯について。貧困と人種差別の撲滅からベトナム戦争反対まで自らのアジェンダを広げてしまったことがKingがリーダーシップを失った=暗殺された原因となったみたいなことを読んだことを思い出した。敵を多く作りすぎてしまったのだ。観客もやっぱりほぼ黒人。映像を見て拍手する人がいたり、観終わって外に出てみると泣いてる男の子までいた。今、黒人はバスに乗っても白人に席をゆずらなくても違法にはならないし、警察から不当になぐられることも減っただろう。だけど、この記念地区の周りを歩けば、そこにたむろす黒人はみんな僕に1ドルを求めてくるのだ。1968年の彼の死から40年経つ今、今だに自らの生家の近くがまぎれもない”ゲットー”であることを彼は想像していただろうか。

Cimg1207 Visitor Centerの展示

そのあと、南北戦争の絵があるとかいうGrant ParkのCycloramaへ向かった。かんかん照りの猛暑、バックパックの重さに慣れていないこともあって、この辺りからものすごい汗と頭痛に悩まされる。バスではよく寝たはずなのに。ダウンタウン北東部とは打って変わって閑静な住宅地を過ぎ、Grant Parkの中でCycloramaをようやく見つけたのは17:10。16:30の閉館から40分も過ぎていた。

仕方がないので休憩と夕食のために、公園の近くにあったイタリアンレストランに入った。ここで、何人なのか全く分からないけどアジア的なエキゾチックさ溢れるウェイトレスがとても親切にしてくれた。音楽の趣味もとても良かった。彼女がサーブしてくれたコーラ3杯とバファリン1錠という荒療治によって、日射病だと思われる頭痛がようやく和らぐ。食事は全部食べられなかったけど、少し楽になったのでGreyhoundのバスディポまで戻ることにした。

ディポについた直後に突然の大雨が降りだした。夕立ちだ。僕は夕立ちが基本的に好きなので、ラッキーだと思いつつまた少し元気になる。1時間ほど出発が遅れたバスは21:30くらいにようやくAtlantaを出発した。

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Hopefully, on the road①

11日間にまたがる旅行から戻ってきました。旅では日記をつけていたんだけど、一人旅で日記を付けるのってほんと理にかなってるなーって思いました。移動の際の待ち時間とか歩き疲れたときとか、その日のことを思い出して書いていると自然と楽しくなるし、自然とまた足も動き始める。その日記をもとに旅のことについて書いていきます。

Washington DCからの出発

8月1日。一日の仕事を終えてWoodley Park/ Adams Morganのアパートに帰ってきた後、この夏を同じアパートで過ごしてきた友人たちとお別れした。アメリカ人のジェシーは「うどんの作り方を教えてくれてありがとう」と言った。僕は、彼にはあまりにいろいろなことを教えてもらったので逆に何も言えなかった。グラマーとか言葉の用法のミスとか彼みたいに根気強く指摘してくれて、かつeasygoingなアメリカ人は周囲にはほかにいなかった。ケニア人のオティアーノ・オルワは「日本から車を輸入するから連絡待っててくれ。See you soon.」と言った。彼とはよく開発をめぐる国際機関の功罪について本気で議論したし、あまりのうるささによく笑わされた。ジェシーは家族と大西洋の島で残りの夏を過ごし、秋はベルリンで過ごす。オルワはPan-African Studiesと国際関係のジョイント・ディグリーという特殊なコースのため、すでに2年間過ごしたというシラキュースに戻りもう一年過ごすことになっている。中国人のジーチョンとは旅行後にもう一度会うことになっている。彼はこの秋もワシントンDCに残る。アメリカでの就職が彼の希望だ。

彼らにお別れを言いつつせかせかとシャワーを浴び、荷物をまとめ、アパートを出たのは20:20。Greyhoundのバス停があるUnion Stationヘ地下鉄で向かう。Union Stationからバス停までの行き方がわからず、早速その辺にいたインド人らしき人に道を尋ねる。3か月も住んでいたDCのど真ん中なのに!インド人の彼はとても親切にわざわざ駅の反対側の出口まで僕を案内してくれた。彼はニューヨークで大学院に通っていて今はワシントンの友人を訪れているらしい。彼に日本人だと言ったら、「でも英語がすごく上手い」と言われたのが嬉しかった。1年間かけて少しはマシになったのだ。

ワシントンノGreyhoundのバス停は、だいたい6割が黒人、3割がラティーノ、判別不能を含めたその他が残りという感じ。僕の列は直後の白人一人を除いて前後40人くらい黒人だった。わずかにいる白人も僕のアパートの周囲でジョギングしているような人たちとは違う。ジムに通ってるような雰囲気もなければ、服も明らかに良いものではない。

バスに乗ると、僕の直後に並んでいた白人の少年が隣に座ってきた。バスでは彼が唯一の白人、僕が唯一のアジア人だからだろう。それに僕は少なくとも米国においては赤の他人にわりと信頼されやすい気がするし。話してみると彼はロシア人で英語から明らかに滞在期間も短いことが分かった。彼は勉強と仕事を両方するプログラムでアメリカにきているらしく、モスクワから70マイル東の小さな街の出身だと言った。帰国は来月9月だという。「そりゃあいい!」と僕が言ったら、「うん、ほんとに。」となんとも言えないうれしそうな顔をしていた。帰国することってやっぱりうれしいことであるべきな気がした。

Richmondで乗り換えの際にロシア人の彼と別れ、Charlotteでもう一度乗り換え。深夜のバスは予想以上に快適。ずっと"ルージュの伝言"が頭の中でループ。そしていつの間にか寝た。

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アメリカ生活の最後に

いよいよ8月。昨年7月からはじまった僕のアメリカ生活も終わりが近付いてきた。

少し前に職場の上司と話をして、僕がこれまで冬季や夏季の授業、インターンを含め本当に間髪を入れずに過ごしてきて、アメリカ東部の都市しか行ったことがないことを話したら、来週一週間まるまるお休みをもらえたので、明日金曜日の仕事が終わり次第、そのまま夜行バスで旅行にでかけます。今回は一人旅です。

思えば、ワシントンDCに来たあと、夏のさんさんとした太陽のもとでずっとどこかに行きたいと考えてました。でも行った先はワシントン市内やメリーランドやヴァージニアのご近所だけ。毎日職場でも家でもニュースに浸かりきる癖がついてしまっていて、ちょっとジェネラルな情報過多な気もしていました。そんなことも含めて、アメリカを去る2週間前というほんとにいいタイミングでこのような機会をいただけたことに心から感謝しつつ、たぶん、できたら楽しんできます。

バスの乗車がとても長くなりそうなので日記でもつけつつ、帰り次第旅行記をアップしたいと思います。ではまた10日後くらいに!

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静かな夏のはじまり

Scimg1119 シラキュースのバス停まで送ってくれた師匠のひとことがこびりついている。

「今がきみにとって生涯最高の時期だ。仕事がはじまったら生活は全く別のものになる。ワシントン良さそうだね。せいいっぱい楽しんで。」

もともと皮肉が大好きな彼だが、大学卒業後十数年、韓国政府のキャリアとして働き通し、勉強についてはかなりのブランクがあるにもかかわらずオールAレベルの成績をキープしている男の一言は重みが違う。

たしかにこんなに自然とワクワクしてくるような1年の過ごし方はこれまでなかった気がするし、仕事がはじまったらいくら海外出張とかあるかもしれないとはいえ、伴ってくる責任とかいろいろな面で今より窮屈になるかもしれない。そんなことを思いながら夜9時半ころ遅れていたGreyhoundのバスにようやく乗り込み、なんだかFF7のミッドガルみたいな雰囲気を出しまくっていた真夜中のNYC経由で翌朝ワシントンに到着。ワシントンで僕らを出迎えたのは強い日差しと、青い空。バスのあまりの揺れと混雑による首の痛みも忘れるほど夏の空気が充満していた。

写真は一週間ほど滞在する部屋からの風景。大学に所有されているアパートの一室なんだけど、広くて本当に良い。将来こんな部屋に住みたいと思わせる広々としたつくり。友達が必死で明日からの短期セミナーの準備に励んでいる傍ら、午後はゆるりと読書。僕は冬の短期セミナーをとったので、5月27日まで夏の授業は始まらないのだ。インターンは誰よりも先に月曜日から始まるけど...。

読書に飽きた夕方はアパートのビルディングの裏手の谷間に広がるNational Zoological Parkへ散歩に出た。これがアメリカの首都なのかと思わせるほどすごく豊かな自然。なんだか懐かしいにおいは、日本で登山に行ったときのものにとても近かった。土曜の夕方だけあってジョガーが多数森の小川沿いの小道を走っていた。このときに僕もこの夏は彼らの一員になってみようと本気で決意。

森から帰ってくると、なぜか自分の中で完全に夏のイメージが盛り上がっていて、角をまがったら屋台でも出ているんじゃないかと考えたくらい。

ゆったりとスタートした僕の夏。

目標は、リラックスした気分をできるだけ保ちながら、自分のビジョンを明確にすること。ゆるりと行きますか。

Scimg1128

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President Parkで朝食を

Scimg1028 木曜日。7時間のバスで3本の映画を心から楽しんだあと、森の切れ目から見えたジョージタウン大学。僕はこのとき、バスでスイス・ベルンの旧市街についたときの感動を思い出した。ワシントンDCって予想以上に美しいところなのかもしれないとこのときに抱いた期待は、結局最後まで裏切られなかった。ジョージタウン大は、同市内にあるジョンスホプキンス大のSAISと並んで、僕が専攻する国際関係で全米トップとされている修士プログラムのある大学。予想以上にすばらしいロケーションと建物を見た友人は、奨学金の関係でジョージタウンの結果を受け取らないままMaxwellからのオファーを受け入れてしまったことをけっこう本気で後悔。後悔する材料のない僕も、なぜか後悔。

今回の旅行は、Maxwellの留学生組織がすべて企画を行ったネットワーキングトリップ。目的はアメリカでの就職面でどうしても不利になりがちな留学生に、国際機関やNGO、シンクタンクで働くMaxwellの卒業生に会い、仕事の現状や就職活動の話を直接聞いたり、コネクションを作る場を設けようとのこと。

そのため、バスは僕の感動とはおかまいなしに観光的な場所にはわき目もふらず最初の目的地ブルッキングス研究所に到着。どちらかというとAsian Development Bankに興味があった僕はアジア人を中心とした小さなグループでADBの5人しかいない小さなオフィスを訪問。そこで特に良かったのは、新しくADBに入ったばかりのカナダ人の女の子が、かつて数年間日本に住んでいたことがあるらしく、訪問が終わって一度別れたあとでわざわざ個人的に名刺をくれたこと。

「あ、これあげるね。Japanese Style!」

日本語しゃべれると良いこともあるのだ。

その後、ホテルにて立食パーティ。スーツのためかなんだか(個人的には)卒業式みたいな雰囲気が漂う中、旅行の2晩泊めてもらうことになっていたOGのローラと会う。彼女は先月、同じくMaxwellのOBのトーマスと結婚したばかりで、僕は同級生でアフガニスタン出身のハメドとともに、新婚ほやほやの二人のアパートにお邪魔することになった。二人のアパートはDCから川を渡ってすぐのところ(そこはもうワシントンDCではなくヴァージニア州)にあるレンガ造りの素敵なところだった。そこに荷物を置き、散歩がてらジョージタウンまで戻りビールを一杯。その後、ほろ酔いで戻った二人のアパートの雰囲気が、「クレイマー・クレイマー」の家族が住んでいるところにとても似ていることに気づき、夢見心地で就寝。

二日目は朝から訪問開始。US China Business Councilという米中貿易振興を目的とするNPOと全米の人道支援NPOのコーディネートをしているInterActionを訪問。その後は、卒業生と昼飯を食べるために、ものものしいチェックを通過してWorld Bankの食堂へ。すごく国際的な雰囲気があってきれいだけど、味は予想以上に普通だった。午後は国連のWFPを訪れたあと、説明を聞くために再びWorld Bankヘ。そして、だいぶ飽きてきていたgeneralな説明が終わりをつげようとしているころ、いきなり出番が。

「この中に日本人はいますか?」

僕だけです!

「日本はアメリカに次ぐ世界銀行の出資者ですが、職員は望ましい人数に達していません。私たちはもっと日本人の職員を必要としています。」

この後、みんなから冷やかしを受けたことは言うまでもないけど、日本人だといいこともあるのかもしれない。

その後、週末のハッピーアワーでまたまたビールを飲み、頭痛を感じながらトーマス・ローラ邸へ帰宅。一方のハメドは、DCに住んでいるカザフスタン人の女の子と遊びに行ったまま結局朝9時まで戻らなかった。ハメド恐るべし。

ついに解放された三日目の今日は、スーツケースを引きずりながらワシントンの中心地へ。President Parkのベンチで、朝食のために買っておいたコーヒーとマーブルケーキを食べる。いつか遠い将来、ワシントンで働く機会があったら週末はここに来ようと決めた。

ワシントンは予想以上に美しく、春みたいにあったかく、清潔な街だった。何よりも旅行っていうのはそれ自体とても楽しい。いろいろ自分の中で消化できていない感想もあるけど、また明日からがんばろう。

Scimg1062

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Ambition

Cimg1008 キャリアフォーラム最終日のお午後。会場内も外も、空気は完全に三日間のタイトスケジュールを乗り切った日本人留学生たちの安堵感と、冷めやらぬ興奮とに包まれていました。

基本的に卒業時期が採用対象外とされることばかりだった僕は、とりあえず手を広げようと今日ははじめてメーカーにまでお話を聞きに行き、大手各社がブースの片づけをはじめた昼過ぎについにゲームセットとなった。廊下にスーツケースを広げ、着替えを探しているとそこかしこから成功の声が聞こえてきた。「おめでとう」ってなんていい言葉なんだろう。来年は必ず最終日の午後に祝杯をあげようと決めた。実際のところ、今日もなぜかお寿司屋さんでビールを飲んだけれども・・・。でも、上寿司を頼まなかったのは来年のためである。

とにかく、今年が最高の売り手市場であるっていう事実は置いておくとして、自分の番がめぐってくる来年は絶対にどうにかなるっていう変な確信と同時に多くの課題を見つけたキャリアフォーラムだった。そして、いくつかの企業に魅力を感じてほんとに働きたいと思った、単純にこれが自分にとっては大きい。

久しぶりに日本語にどっぷり浸かった影響もあるのかもしれないけど、とにかく僕の今後の方向性に大きな影響を及ぼすだろう多くの人や言葉と出会った気がする。

とりわけある友人の言葉は忘れられない。

「自分が本当に信じることを話せばいい。」

すべては、自分の能力を発揮し、最大限に伸ばし、最高にエキサイティングな仕事をするため。

僕は正直彼のように人生を考えたことがなかった。ここに書くにはなんだか言葉が多すぎる、あるいは足りなすぎる気がするけど。

少なくとも、自分はいろんな刺激をもっと積極的に受け入れていこう。そして、もっといろんな世界が見たいと思った。

総括。今回のボストン旅行は本当に刺激的で本当に楽しかった。

気分を新たに、たまりにたまった宿題を今週いっぱいで片付けます!

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夢の交差点

ボストンキャリアフォーラムもメインとなる2日間を終えた。残すはあと1日という夜にこうやって律儀にブログを更新するのも、ひとえに自分のためなのかもしれないとひしひしと実感しつつタイプしています。

正直な感想。僕は会場の雰囲気や、そこに集まる企業のひとたちやこのイベント自体が嫌いじゃない。日本や世界の産業を構成している企業のほんの一部にすぎないのに、自分がいかに世の中の仕組み、動きを知らないかってことを再確認している。企業の説明会っていうのは、ある意味ただで受けられる授業のようなものだと本気で思いつつ、きっちり楽しんでいる気がするのである。

他の業界でもそうだとおもうが、特に金融関係の企業の人が強調していたのが、専攻と職種の関連は必要条件ですらないという話から発展して、学問と実務のギャップについて。アカデミックな議論がある意味理想化された領域で行われるものであるということに加えて、実務には常に組織の共通目標に向かっている中での責任が伴っているということ。それは社会に対して物理的、システム的に影響を及ぼすという意味での責任である。

同時にいろんな会社の人事の方から諭されたのは、「あなたが勉強したいことを就職という照準に合わせるような形でゆがめてはならない。」ということだった。

今日は、ボストンに事業の下調べに来ていた日本人起業家の人と会場外でふとしたことから知り合いになり、インド料理のランチをごちそうになった。そのときにも、求職活動における最大の罠は、「手段の目的化」だって言われたけど、それはほんとにそうだと思う。

人間の興味っていうのはほんとに多様だ。興味や探究心がポジションや組織にフィットしないのは当然のことだとずっと思ってきたし、それは事実だと思う。多くの人はあるポジションにつくために、あるいはそこで働き続ける上で、自分の”ほんとの”関心との距離を測り続けるのかもしれない。

あるいはそうじゃないかもしれない。同時に、特定の組織である種の仕事をするのが”夢”になることだって当然あるのだ。

昨夜ホテルのロビーで知り合い、一緒に夕食を食べた留学生は、

「僕はある企業で自分のやりたいことをするために会社を辞め、アメリカ留学を決めた。すべては今日のためだった。」

と言っていた。

いずれにせよ、この数日がそんな彼にとってもゴールでないことはたしかだ。たぶん、次なる舞台のセットアップのためのlinkage。多かれ少なかれ何かをbetしてやってきた日本人留学生たちにとって次へとステップを踏み出す場所。とにかく、来て良かった。何をやりたくてきたのか、もう一回確認しなきゃ。

そんな僕の戦績

受けた面接:1

落ちた面接:1

僕の心:(hopefully painless

・・・。さあ最終日に向けて、学校の宿題でもやりますか!

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リバーサイドホテルにて

Cimg1004 夏に友人との旅行で訪れたボストンにまたやってきた。

今回は、日本人留学生の就活の最大のクライマックスとされるボストンキャリアフォーラムのためである。夏と違うところといえば、とにかく恐ろしく寒いこと、空港から地下鉄から何から日本人だらけであること。そして多くの日本人学生が別室にてレジュメを書きなおし、面接の練習をしているだろうホテルの一室にて、最近の出来事をまとめるために長文を書こうとしている僕はいささか間が悪すぎるんだろうなぁ。

ここ1週間は、本当にハードだった。スケジュールは詰まりに詰まっているのに、なぜかやる気が出ないことが問題だった。とにかく友人たちにtired, tiredと言いまくっていたのである。

月曜日には統計の2度目のMidtermがあり、水曜日にはMicroeconomicsの3度目のMidterm、その後同じ水曜日が科目登録開始の日だったので、来学期の予定もリアルに構築しなきゃならなかった。それらをぎりぎりでも終えてこられるだけまだマシだったけど、この時期にキャリアフォーラムやらなくても・・・っていう日本人のつぶやきはどこに行っても同じかもしれない。

頭痛がひどかった水曜日、シラキュースでは初めて雪が降った。ダウンジャケットの隙間から入り込んでくる優しさをみじんも感じない風にふつうに腹が立った。何もこのタイミングで雪なんて。

そんな水曜日の昼、友人からメールが。

「どうしても話したいことがあるから、5分だけでいいから会わない?なんならコーヒーでも。」

僕は体調が悪かったので何となく気が進まなかったが、とりあえずテストも終了したことだし、学校の近くのスターバックスで会うことに。

そんな彼女が話したかったこととは、ただ「(ボストンに)気をつけて行ってきて」ということだけだった。なんて大げさな・・・。だけど、彼女いわく、それはどうしても言っておきたいことらしい。

彼女は数年前に親しい弟を亡くしている。それも突然に。彼女は僕がその弟と誕生日の日が4日違うだけとかいうわけのわからない理由で、僕のことを弟のようだと言ってくれるのである。「気をつけて」と言えなかったことをずっと後悔しているのだと言って弟からの絵葉書を見せてくれた。僕にとって、それはある意味こわい予言的な雰囲気もあったけど、やっぱりそういう友達がいるっていうのはほんとにありがたいことなのかもしれない。少なくともかなり元気をもらったことはたしかだ。

その後はもう一人の友人を交えて、いろんなことを話した。その中で、僕が親に電話をかけない、そもそも電話番号も教えていないことをさんざん説教された。

僕の理屈:「何回電話したとか、コミュニケーションの頻度なんて僕の関係性にとっては重要ではない。」

彼らの理屈:「関係性とはコミュニケーションそのものだ。お互いのことや思っていることをやりとりせずに、何がいったい関係性なんだ?」

これは文化的相違なのか、それとも個人の価値観の違いなのか。それでも、さっきの話も含めとにかく伝える、何てことはないことでも交換し合うことが関係性だというシンプルさにも惹かれないわけではない。

もう一人の友人の帰り際のセリフ 

「帰ってきたらとにかく何でもいいから連絡してくれ。ただ帰ってきたっていうだけでいいんだ。」

大げさすぎる社交辞令でもなんでもいいが、こういうストレートさが響くときだってたしかにあるのだ。

翌日の昨日は、なかなかの晴天。午前中の便でひさびさにシラキュースから脱出した。一人で乗る飛行機っていうのはやっぱりなかなか乙なもの。空から眺めるとアメリカ東部は今本当に紅葉のピークであることが分かった。フィラデルフィア経由でNYC上空を通過しボストンまで行ったんだけど、眼下は一面の赤と黄色である。フィラデルフィアからボストンまでの約2時間気づいたら僕はずっと外を見ていたらしい。

そしてボストンでは、夏にも利用したことがあるHarvard Avenue駅を降り、スーツケースを2km以上引きずってチャールズリバー沿いのホテルへ向かった。ボストンももう5時前には暗くなってしまう。夕暮れの雰囲気はもうクリスマス間近みたいだ。

荷をといて、さっそくホテルの一階で中華焼きそばを食べ終わったのが7時半。なんだか重たい体をベッドに投げ出す。そこから予想以上に長い睡眠に入った僕なのであった。

(おそらく、ふつうの就活の話へ)つづく・・・

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