Tibetへ⑥
1月20日。二度目の最終日の朝を迎えた。起きられるかどうか心配であまり良く眠れなかった僕は、6時の起床とともに再び強い頭痛を感じた。これで滞在の3日間、僕は高山病を克服できなかったということになる。バファリンと風邪薬を飲んで、もう一度アルベルトとお別れをし、6時35分に市内のバス停へ。この時間のラサはほとんど真夜中と言っていいくらい真っ暗である。
バスには前日空港のゲート付近で待っていた面々がきちんと乗り合わせていた。バスは暖房も入れておらずとても寒いので、僕はダウンジャケットのファスナーを一番上まであげて出発をじっと待った。バスは7時すぎにゆっくりと動き出し、ラサ市街から空港へ向かう。なぜか眠ることができなかったので、僕は窓からずっと外を見ていた。なぜかあまり遠くにいる気がしなかった。家々は古く、ほころんでいて、見慣れない造りをしているんだけど、なんとなく親密さのようなものがある気がした。やがて市街を離れてあたりが暗くなると、満天の星が見えた。小学生のとき、木曾駒ケ岳の山頂の山小屋で見たような、星をあたり一面にこぼしたような空だった。5分ほどのうちに流れ星が二つ見えた。
8時少し前の空港は前日キャンセルされた便の振り替えを待つ人たちで、早くも混雑の様相を示していた。指示に従ってカウンターに並んだものの、カウンターは9時まで開かず、そのあともチケットをもらうために長蛇の列を待つことに。結局飛行機が飛んだのは午後1時のことであった。
空港についてから、そして飛行機が飛び立ち、成都でお客の入れ替えを行い、北京に到着するまでの間、僕はずっと前日知り合ったノルウェー人のIととめどないおしゃべりをしていた。彼女は僕と同い年。高校はインターナショナルスクールに通い、18歳のときに1年間、インドでチベットから亡命してきた人たちを助けるボランティアの仕事を行った。それから大学に入って東アジアを専攻し、1年間の北京留学ののちラサにやってきて、そこで2年間を過ごしたのだそう。ノルウェー語、英語、ドイツ語、中国語、チベット語を話す、いかにも北ヨーロッパの国際派。
ラサで彼女が通っていた学校では、数少ない留学生のほとんどがどこかのメジャーな宗教の宣教師だったらしい。チベット仏教の影響をかの地から薄めるための中央政府の政治的戦略であるとのことだった。彼女によると、彼らはみんな「東洋の神秘にかぶれたクレイジーなやつら」で、宣教師でも何でもない彼女にとっては付き合っていくことが難しく、友達はほとんどチベット人だったらしい。”文化の違い”(多くの場合チベット人の友人たちは待ち合わせに遅刻したり、連絡も入れず平気で約束を破った)によって、彼女も最初はかなり大変な時期を過ごしたらしいけど、2年間を過ごした今では、ラサは彼女にとって第二の故郷と呼べるくらい、大事な場所になった。一度大学で運動会があったときには、留学生のマラソンランナー二人とフットボールが好きで運動が得意な彼女自身とを合わせてリレーのチームが結成されて、絶対に勝てると思っていたらしいけど、いざ走ってみると高地では思うように身体が動かず、走り終わった後の気持の悪さは二度と思い出したくないほどだったらしい。
特に興味深かったのは、彼女が国に帰る”理由”だった。3月の暴動後、彼女には暴動にかかわった嫌疑がかけられ、現地の警察に一度呼ばれることになった。そのときは特別なことはなにもなかったけど、その後しばらくして、彼女は自分のアカウントから発信されたメールが一切友人に届いていないことを知った。完全にマークされていたのだ。そして休暇で彼女が国に戻っている間に、彼女をチベットから退去させることがどこかで決定され、北京にあるノルウェー大使館の職員が、彼女がいない間に彼女の荷物をラサの住居から撤収した。本来もう一年あるはずのチベット留学は、実質的に追放のような形で突然終わったらしい。「あなたの隣に座っているのはチベットではテロリストだと思われている人なのよ」と彼女は冗談めかして言っていた。実際暴動に”関わったのか”どうかはよく分からなかったけど、彼女の口ぶりからは彼女自身が何の自覚もないままにすべてのことが決定され動いていたような印象を受けた。でも、どうしてももう一度チベットの友人たちに会いたい、ラサの状況を一目見たいという気持ちから、ツーリストビザを申請すると意外にも許可が下りたので、今回はそのための短期滞在だったとか。(ちなみに本国のメディアでチベットの状況について暴露した彼女の知り合いには、ツーリストビザも下りることはなかった。)彼女から見たラサは、変わっていた。街中のいたるところに銃を持った警官がいて、上を見上げるとどこにでも監視カメラが備え付けられていた。(僕はそれに全く気付かなかった。)街を歩くお坊さんの数も激減していた。僕が「今年は50年の節目なわけだし、また3月に暴動が起こると思う?」と聞くと、「あんな状況で何か起こせるわけがないじゃない。」と言っていた。
一方の僕は、アメリカ留学のことについて、僕の好きな音楽について、日本における女性差別への個人的見解について、高山病について話した。
北京の首都空港に着いたのは午後7時すぎ。僕は前日の睡眠不足を引きずりながら彼女とずっと話し込んでいたのでかなり疲れていたのだけど、空港のATMからキャッシングできないことが判明した。12月に東京から北京に戻ってきた時も同じことが起こって、3回チャレンジした後にカードを飲みこまれてしまったのでので、僕はそこでお金をおろすことをひとまず諦め、Iにお願いしてタクシーを相乗りすることにした。彼女は親切にも僕の大学のATMまでついて来てくれて、僕がお金をおろしたところまでを見届けてくれた。そこまでのタクシー代まで払ってくれた。僕は何度もお金を払おうとしたけど彼女はかたくなに受け取らなかった。彼女は「次は私がお金に困っている番かもしれないから」と言った。
それから8時半ごろ、僕はアドバイザーのJaneのところに行って、旅行前に預けた荷物を受け取り、明日の朝の東京行きの便まで自分が身をおく場所がないことを告げた。彼女は、僕のために一晩だけ寮の部屋を用意してくれた。それはアルベルトが数日前にチェックアウトした部屋だった。彼女は10月に僕のラップトップが突然壊れたときにも2週間ほど彼女のラップトップを貸してくれたし、本当に親切だった。僕は何度もお礼を言い彼女にも別れを告げた。翌日の朝5時。僕は再び寮をチェックアウトして東京に向かった。
-おわり-
PS.
こうして書いてみると、僕が非常時にどれだけ人にお世話になっているか分かりますw。でも、そんなときこそ、心に残る交流が生まれるのかもしれないですね。チベット旅行は身体的にボロボロで、そのせいで底抜けに楽しめる感じではなかったけど、それと対照的な目に見えるものの鮮やかさと(物理的にも政治的にも)厳しい環境に生きるチベットの人たちの顔は僕の心に深く深く刻まれました。
そして、なにはともあれ、僕は晴れて中国生活を終え、先週東京に戻ってきました。今後はブログのデザインも一新して、世界のいろんな出来事について学んでいこうという意思をもった一人の社会人として、相変わらずいろんなことを書いていきたいと思っています。今後もどうぞよろしくお願いします。










































































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