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2009年1月

引っ越しのお知らせ

日本に帰って来てからの一週間、僕が何をしていたかというと。

・たくさん寝る
・ジョギングを再開
・村上春樹の小説がどうしても読みたくなって、「ねじまき鳥クロニクル」を3日で読み終える。
・歯医者に行く
・北京で紛失したキャッシュ・クレジットカードの再発行の手続きをする
・要らない服を捨てる
・去年夏からの週刊少年ジャンプを2時間半で全部読む
・会社に就職の承諾書を提出
・友達とちらほら遊ぶ
・チベット旅行記をブログに書く

という感じですね。なんだかこのリストを見るとひまなのか忙しいのかよく分からない印象を受けます。
ということで、だいぶ僕の生活立て直しも進んできたことだし、僕ももう「留学生」ではなくなってしまったので、シラキュース大学国際関係留学記として綴ってきたこのブログも卒業したいと思います。ちょっとでも読んでくれた人(それ以外の人はこれを見ることはない気がしますが)、本当にありがとうございました。

僕はココログの編集画面に今ではとても慣れてしまって、すでに心からの愛着を感じているんですが、かなり迷ったものの、気合を入れ直す、心機一転するという意味で、引っ越しをすることに決めました。

新しいブログのURLは以下です。
http://qinmu-onthetour.blogspot.com/

今後はこちらで更新していきますので、新しいブログをブックマークに加えていただけるととても嬉しいです。
今後もどうぞよろしくお願いいたします。

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Tibetへ⑥

1月20日。二度目の最終日の朝を迎えた。起きられるかどうか心配であまり良く眠れなかった僕は、6時の起床とともに再び強い頭痛を感じた。これで滞在の3日間、僕は高山病を克服できなかったということになる。バファリンと風邪薬を飲んで、もう一度アルベルトとお別れをし、6時35分に市内のバス停へ。この時間のラサはほとんど真夜中と言っていいくらい真っ暗である。

バスには前日空港のゲート付近で待っていた面々がきちんと乗り合わせていた。バスは暖房も入れておらずとても寒いので、僕はダウンジャケットのファスナーを一番上まであげて出発をじっと待った。バスは7時すぎにゆっくりと動き出し、ラサ市街から空港へ向かう。なぜか眠ることができなかったので、僕は窓からずっと外を見ていた。なぜかあまり遠くにいる気がしなかった。家々は古く、ほころんでいて、見慣れない造りをしているんだけど、なんとなく親密さのようなものがある気がした。やがて市街を離れてあたりが暗くなると、満天の星が見えた。小学生のとき、木曾駒ケ岳の山頂の山小屋で見たような、星をあたり一面にこぼしたような空だった。5分ほどのうちに流れ星が二つ見えた。

8時少し前の空港は前日キャンセルされた便の振り替えを待つ人たちで、早くも混雑の様相を示していた。指示に従ってカウンターに並んだものの、カウンターは9時まで開かず、そのあともチケットをもらうために長蛇の列を待つことに。結局飛行機が飛んだのは午後1時のことであった。

空港についてから、そして飛行機が飛び立ち、成都でお客の入れ替えを行い、北京に到着するまでの間、僕はずっと前日知り合ったノルウェー人のIととめどないおしゃべりをしていた。彼女は僕と同い年。高校はインターナショナルスクールに通い、18歳のときに1年間、インドでチベットから亡命してきた人たちを助けるボランティアの仕事を行った。それから大学に入って東アジアを専攻し、1年間の北京留学ののちラサにやってきて、そこで2年間を過ごしたのだそう。ノルウェー語、英語、ドイツ語、中国語、チベット語を話す、いかにも北ヨーロッパの国際派。

ラサで彼女が通っていた学校では、数少ない留学生のほとんどがどこかのメジャーな宗教の宣教師だったらしい。チベット仏教の影響をかの地から薄めるための中央政府の政治的戦略であるとのことだった。彼女によると、彼らはみんな「東洋の神秘にかぶれたクレイジーなやつら」で、宣教師でも何でもない彼女にとっては付き合っていくことが難しく、友達はほとんどチベット人だったらしい。”文化の違い”(多くの場合チベット人の友人たちは待ち合わせに遅刻したり、連絡も入れず平気で約束を破った)によって、彼女も最初はかなり大変な時期を過ごしたらしいけど、2年間を過ごした今では、ラサは彼女にとって第二の故郷と呼べるくらい、大事な場所になった。一度大学で運動会があったときには、留学生のマラソンランナー二人とフットボールが好きで運動が得意な彼女自身とを合わせてリレーのチームが結成されて、絶対に勝てると思っていたらしいけど、いざ走ってみると高地では思うように身体が動かず、走り終わった後の気持の悪さは二度と思い出したくないほどだったらしい。

特に興味深かったのは、彼女が国に帰る”理由”だった。3月の暴動後、彼女には暴動にかかわった嫌疑がかけられ、現地の警察に一度呼ばれることになった。そのときは特別なことはなにもなかったけど、その後しばらくして、彼女は自分のアカウントから発信されたメールが一切友人に届いていないことを知った。完全にマークされていたのだ。そして休暇で彼女が国に戻っている間に、彼女をチベットから退去させることがどこかで決定され、北京にあるノルウェー大使館の職員が、彼女がいない間に彼女の荷物をラサの住居から撤収した。本来もう一年あるはずのチベット留学は、実質的に追放のような形で突然終わったらしい。「あなたの隣に座っているのはチベットではテロリストだと思われている人なのよ」と彼女は冗談めかして言っていた。実際暴動に”関わったのか”どうかはよく分からなかったけど、彼女の口ぶりからは彼女自身が何の自覚もないままにすべてのことが決定され動いていたような印象を受けた。でも、どうしてももう一度チベットの友人たちに会いたい、ラサの状況を一目見たいという気持ちから、ツーリストビザを申請すると意外にも許可が下りたので、今回はそのための短期滞在だったとか。(ちなみに本国のメディアでチベットの状況について暴露した彼女の知り合いには、ツーリストビザも下りることはなかった。)彼女から見たラサは、変わっていた。街中のいたるところに銃を持った警官がいて、上を見上げるとどこにでも監視カメラが備え付けられていた。(僕はそれに全く気付かなかった。)街を歩くお坊さんの数も激減していた。僕が「今年は50年の節目なわけだし、また3月に暴動が起こると思う?」と聞くと、「あんな状況で何か起こせるわけがないじゃない。」と言っていた。

一方の僕は、アメリカ留学のことについて、僕の好きな音楽について、日本における女性差別への個人的見解について、高山病について話した。

北京の首都空港に着いたのは午後7時すぎ。僕は前日の睡眠不足を引きずりながら彼女とずっと話し込んでいたのでかなり疲れていたのだけど、空港のATMからキャッシングできないことが判明した。12月に東京から北京に戻ってきた時も同じことが起こって、3回チャレンジした後にカードを飲みこまれてしまったのでので、僕はそこでお金をおろすことをひとまず諦め、Iにお願いしてタクシーを相乗りすることにした。彼女は親切にも僕の大学のATMまでついて来てくれて、僕がお金をおろしたところまでを見届けてくれた。そこまでのタクシー代まで払ってくれた。僕は何度もお金を払おうとしたけど彼女はかたくなに受け取らなかった。彼女は「次は私がお金に困っている番かもしれないから」と言った。

それから8時半ごろ、僕はアドバイザーのJaneのところに行って、旅行前に預けた荷物を受け取り、明日の朝の東京行きの便まで自分が身をおく場所がないことを告げた。彼女は、僕のために一晩だけ寮の部屋を用意してくれた。それはアルベルトが数日前にチェックアウトした部屋だった。彼女は10月に僕のラップトップが突然壊れたときにも2週間ほど彼女のラップトップを貸してくれたし、本当に親切だった。僕は何度もお礼を言い彼女にも別れを告げた。翌日の朝5時。僕は再び寮をチェックアウトして東京に向かった。

-おわり-

PS.
こうして書いてみると、僕が非常時にどれだけ人にお世話になっているか分かりますw。でも、そんなときこそ、心に残る交流が生まれるのかもしれないですね。チベット旅行は身体的にボロボロで、そのせいで底抜けに楽しめる感じではなかったけど、それと対照的な目に見えるものの鮮やかさと(物理的にも政治的にも)厳しい環境に生きるチベットの人たちの顔は僕の心に深く深く刻まれました。
そして、なにはともあれ、僕は晴れて中国生活を終え、先週東京に戻ってきました。今後はブログのデザインも一新して、世界のいろんな出来事について学んでいこうという意思をもった一人の社会人として、相変わらずいろんなことを書いていきたいと思っています。今後もどうぞよろしくお願いします。

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Tibetへ⑤

1月19日。朝8時半に、また頭痛とともに目覚める。でも昨日よりは少しましになっているみたい。この日の午後北京行きの飛行機に乗ることになっていたし、バファリンと風邪薬をもう一回飲んで、なんとか乗り切ろうと決心。一方で、昨日なんでもなかったアルベルトも頭痛とともに起床。今朝は僕以上にひどそうだ。ただ症状が出るのが遅かっただけかw。

9時に予約を入れておいたはずなのに、朝食のルームサービスは9時半まで来なかった。僕らはその間、中国の特撮ヒーローものみたいなやつに見入っていた。なんとも形容しがたいんだけど、一番近い雰囲気は西遊記のドラマかな。最初はあまりの安っぽさにぼろくそに言っていた僕らであったが、少なくとも僕だけはちょっと暗くて(人が簡単に死ぬ)、かなり気持ち悪いストーリー(ヒーローの一人が敵を死に物狂いで倒した末に、狂って気持ち悪い獣になってしまったりする)のとりこになり、朝食が来たときもテレビにくぎづけであった。一方で、いざやってきた朝食のルームサービスはバターやマーガリンも含めて何も塗るものがないトーストが2枚に、卵一個だけ、フォークもナイフもなしだったので、非常にがっかりだった。

M_cimg1672 10時半に再びビャンバと会い、まだ見ていなかったジョカン内部へ。中は僕ら以外全員巡礼者なのではないかと思われるほど、外国人の姿が見えなかった。さすがlow season。ビャンバによれば、中には一年の大半をかけて、徒歩でこの寺にやってくる人もいるのだという。肌が黒いのは日焼けのためだけではなく、乾燥し貧しいこの地域では身体を洗うことが少ないためだ。念仏を唱えながら回っているチベットの人々に押されながら、一つ一つ部屋を見て回る。2階にはチベットの朝の強い光が何本かはっきりとした光線となって差しており、チベット仏教の中心であるこの寺の神聖さを増していた。

僕らは様々な仏像の中でも、身体が折り重なるように二つになっている仏像に(ある意味当然のごとく)興味をひかれた。横の壁にはあからさまに性行為を行っている仏陀の姿が描かれている。カトリックのアルベルトは、このあたりの描写に異文化のにおいを強く感じ取ったみたい。ヒンドゥーの神々の性行為にまつわる話もそうだけど、僕はアジア宗教のこういった露骨さと混沌に強い興味を覚える。処女受胎とは、対照的な世界観。

M_cimg1676 ジョカンの屋根の上からは、身を投げ出すように祈りを捧げる巡礼者たちと、昨日訪れたポタラ宮が見えた。M_cimg1674 空は相変わらず中国のどこよりも濃いと思われる青。建物の白と赤、そして金色のマニ車が青い空を切り取る景色はとても鮮やかで、同時にその色づかいは、明らかに僕が知る中国とは”別の世界”であると感じた。

その後ビャンバが推薦したレストラン(それは僕らが前日朝食をとったチベットポップスが流れているお店だった)にて、お昼御飯を食べながら、ビャンバと話した。ビャンバは、「今年はダライ・ラマ亡命から50周年だし、中国においては9で終わる年に何かしらの大きな出来事が起こっている。3月にはここで何が起こるか分からない。」とかなり意味深な発言をしていた。国際関係の学生だけあって、チベット問題にはかなり興味のある僕らが、さらに暴動についていろいろ聞こうとすると、「こういう話をするのはあまり良くないんだ。例えば街中のどこかてきとうなカフェで少しでも暴動なんか匂わせたらもうアウトさ。どこにだってスパイは潜んでいる。」と言ってこの話はすぐに終わってしまった。ビャンバがただ観光産業に関わる人間として暴動の大きなリスクを懸念しているのか、あるいは彼自身が何らかの形で運動に関わっているのかははっきりしなかったけど、とにかく興味深い話だった。

M_cimg1678 それから僕は、アルベルトと別れ、ビャンバに送られて空港に向かった。短いラサ滞在を終え、日本帰国前に一度北京に戻るためだ。僕の頭にはまだ鈍痛が残っていた。ナイキのショップまであるちょっと商業的なラサ市内と違って、空港までの1時間あまりの景色はちょっと壮絶だった。M_cimg1685 周囲は木が一本も生えていない岩山、そして谷の中心を走る、ものすごく青く澄んだ川。川には本当にたくさんのカモが泳いでいて、縁には乾燥地の木なのだろうか、赤い木が立ち並んでいた。今度来るときにはチベットの大自然を味わって、エベレストでも見に行きたいなと思いながら、車で流れていたチベットポップスに耳を傾けていた。

しかし。

旅はそうすんなりは終わらなかった。空港で3時間待った末に、北京行きの僕の飛行機はキャンセル。ラサ空港の窓からは風によって砂が巻き上げられて、周囲の視界が非常に悪くなっていることが分かったし、どうやら一度着陸することになっている成都の方も濃霧のため着陸に問題があったようだ。その日ラサ空港では、その他の遅い時間の便も全便キャンセルとなった。僕は翌日早朝の便で北京から東京に戻るはずだったので当然のごとくキレたが、職員にはほとんど相手にしてもらえず「とにかく明日の朝9時に戻ってきてください。」の一辺倒だった。

仕方ないので気持ちを切り替えて、臨時のバスでラサ市内まで戻ることに。ひとまず、宿はアルベルトがもう一泊することになっていたから同じ部屋に泊まれば良い、北京においてある荷物はアドバイザーにメッセージを送ってもう一日預かってもらえば良い、問題は北京から東京へのフライトをどう変更するかということだった。

運良く、空港からラサ市街へ戻るバスの中で、流暢な英語と現地語を同時にしゃべっている人を見つけた。ラサに2年間住んでいたというノルウェー人のIである。バスから降りると、僕は早速彼女に話しかけ、僕の状況を説明した。彼女は僕をインターネットカフェまで案内してくれて、翌日の朝7時に空港行きのバスでまた会うことを約束した。そして僕はそこのPCを使って、北京-東京間のフライトの日程変更を行って、親に帰りが遅れる旨のメールを送った。そして部屋でようやくアルベルトに再開したときには、とにかく疲れていた。

その後僕らは、前日と同じ洒落たレストランで全くチベット的ではないディナーを食べた。僕はスパゲッティボロネーゼ、アルベルトはチキンのチーズソース添えである。そしてホテルに帰ってきたあと、ようやく見つけたCCTVの英語チャンネルで都合よくチベットの旅行特集とニュースをやっていたので、それを観た。旅行特集ではアメリカ人のとてもクールでセクシーな女の子が、僕らが歩いたジョカンのバザールを紹介していた。ニュースでは、中国政府がチベットを厳しい階級制度と農民たちの苦役から解放して50年だと言っていた。僕らはどちら側にも一定の真実があるのだろうという結論に落ち着いた。その夜僕は翌日のことが気になって、そしてなぜかおなかが痛くなってあまり良く眠れなかった。そして、また将来のことについてくどくどと考え続けることになった。

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Tibetへ④

1月18日。まだ薄暗い8時頃目覚めると、ものすごい頭痛。昨日ちょっとだけビールを飲んだのがまずかったのかもしれない。はっきり言ってそのままでは歩けそうにもないくらいの悪寒と頭痛だったし、顔色は寝台でできたらしいにきびと併せて最悪だったんだけど、実のところ僕には時間がなかった。20日に北京から東京へ飛ぶ便がfixで予約してあったため、丸一日ラサを回れるのはこの日だけという強行日程だったからである。持参していた風邪薬とバファリンを飲み、気合で朝食に繰り出すことに。

※ラサは約3650m。富士山よりちょっとだけ低いくらいの標高です。富士山の頂上で一日中歩き回ったりお酒を飲んだりすることを考えてくださいw。何かの間違いで走ったりなんかしたら多分病院行きです。当り前のことですが、高山病の対策としては、ちゃんと高山病用の薬を持っていった方が良いです。特に若い男性は重くなりやすいそう。それに飲酒、喫煙は確実に事態を悪くします。高山病対策としてはなるべく大量の水を飲むことです。僕は小学校のころから3000m級の山登りにそれなりに行かされていたため知識はあったはずなのですが、逆に根拠のない自信もあり、チベット出発前と滞在中は対策を思い出すことも全くありませんでした。高いところはほんとに見くびらない方が良いみたいですw。

M_cimg1641_2 朝9時のジョカン前はわりと静かである。この時期は観光客が圧倒的に少なく、巡礼者が大部分を占めるし、なんせチベットの朝は遅い。一方で、実際のところ高地のわりにラサの気温は低くない。北京から来た僕らにとっては、まるで春のような陽気である。(日中はだいたい10℃ちょっと。夜は-7,8℃まで下がることもあるらしいが、実際滞在中はそこまで下がっていないと思う。)朝食は、地球の歩き方にも載っているネパール料理、西欧料理のレストランで80年代ディスコミュージックを思わせる独特のチベットポップスを聴きながら、トーストと卵をいただいて20元。そして多分チベットファンの父親のために、ポストカードを購入。この時点で、バファリンのおかげか頭痛はかなり軽くなった。

午前10時、ビャンバと合流してポタラ宮へ。M_cimg1644_2 1959年のチベット”解放”、そしてダライラマとチベット政府亡命以来、主なき宮殿であり、そして1994年から世界遺産登録されているラサのシンボル的な観光地。low seasonである冬はお客さんの半分以上が巡礼者で、数もそれほど多くないので1時間の時間制限もないし、前日に予約を入れる必要もないそうだ。きついのは紅宮に入るまでの350段の階段。ゆっくり進まないと、また頭痛が。こんなところで修業なさっている僧侶はやはりすごいと感心。

僕がポタラ宮で最も気になったのは、歴代ダライラマの棺と、マンダラであった。チベットでとれるという金やトルコ石などがふんだんに使われた棺は、超豪華で、まさにダライ・ラマの権力を象徴しているかのよう。それ以上に気になったマンダラはM_cimg1648_2、チベット仏教の世界観の象徴。円形になった涅槃(nirvana)の淵にある地獄。そこには動物や人間がいる。仏教の世界観では、僕らは”世界”のはじっこの地獄で生きているのだ。こういうmicrocosmってなぜか昔から好き。それに、昔の人が”地獄で、ほんとうの世界のはじっこで生きている”っていう風に考え出した経緯って本当に興味深いと思う。宗教についても今後少しずつ知識を深めたいな。各部屋では、巡礼者がロウソクに油を注ぎ、貧しそうな身なりにもかかわらず毎回お賽銭をはたいていた。僕もダライラマの帰還を願って、なぜか持っていた1USドル札を投入。

M_cimg1651 ポタラ宮観光が終わると、M_cimg1656 近くのバザールを少しぶらついた後、ビャンバと別れ、昼食へ。ここも、地球の歩き方に載っていて英語のメニューがあるところ。店員もちょっと英語をしゃべるけど、時期が時期とあって客は自分たち以外全員地元の方。食べたのは、ヤク肉が入ったチャーハンと、バター茶、そしてヤク肉の餃子。チャーハンは文句なくおいしく食べられる。バター茶と餃子はわりと臭みがあったけど、僕は少なくともそのときにはおいしく平らげた。(あとで少し気持ち悪くなった。)これらを食べたあとで、さらに体調が回復。M_cimg1657 やっぱり土地に適応するには土地のものを食べるに限ります。

午後は完全自由行動だったので、ひとまずゲルグ派の大僧院である、セラゴンパに行くことに。ジョカン付近から、タクシーでだいたい20元弱。

M_cimg1662 セラゴンパは、白い建物が青い空に映える美しいお寺だった。M_cimg1666入場料は学割で25元。ガイドブックによると、ここでは午後問答修業が行われているということだったが、僕らはそれを見ることができなかった。週末だからかなーと思っていたんだけど、後でわかったことによれば、去年3月の暴動以降、ラサ全体で僧侶の数が激減したとのこと。多くのものは故郷へ帰って行った、あるいは中央政府によって帰らされたのだ。今ではセラゴンパの僧の数が少なすぎるため、平日でも以前のような問答修業を見ることはできないらしい。暴動の爪痕がここにも。

そのあと、僕らはさらにタクシーに乗り、ダライラマの夏の離宮であるノルブリンカへ行った。セラとは違ってここは学割もきかず60元もとられた。 入場料のわりに、僕らが回った広大な敷地の一部には少なくとも、手入れが行き届いているとはまったくいえず、橋がくさって朽ち果てていたり池にはたくさんのごみが捨てられていた。ここも世界遺産の一部になっているいるけど、僕が見た範囲内では正直おすすめできない。セラの方がずっと良い。僕らはここでアヒルが氷の上からこけて池の中に落ちるのを見たり、アメリカでのクラスメートの近況について話したりした。気づくと、時計はすでに夕方の5時。一度ホテルに戻って休憩をとることに。

M_cimg1668 少し休んだあと、またもやジョカン周囲のバザールを散策。日曜の夕方ということもあってか、バザールは大盛況。アルベルトは道端で売っていたお茶を買い、僕はトルコ石(たぶん偽物)が鞘に使用されている不思議な形のナイフに魅せられていたけど、多分飛行機に持ち込めないだろうという冷静な判断をして買わなかった。どこをどんな風に歩いたのか全然覚えてないけど、僕らはそのあと、ムスリムがたくさん住んでいる一帯へ行き着いた。M_cimg1669 チベット仏教の聖地であるラサにもムスリムがいるのだ。そこにはモスクがあり、その前を屠殺したばかりと言った雰囲気のヤクの肉の巨大な塊と骨がトラックで運ばれていった。何とも異様な光景である。

M_cimg1670 僕らはその後、北京東路沿いにある、かなり洒落たカフェ・レストランにて夕食をとった。僕はナシゴレンを、アルベルトはヤクのハンバーガーを食べた。店内にはチベット滞在中らしい欧米人が数人いた。4,5人だけだったけど、この時期のラサ市内でこれだけの欧米人を見るのは珍しいからたまり場みたいになっているところだと思う。僕らが訪れた範囲では、とにかく欧米人を見ることが少なかったのだ。おそらく暴動以降、外国人旅行客のチベット訪問の条件が厳しくなって、代理店とガイドを立てなくてはいけなくなったことがバックパッカーを遠ざけているのではないかと僕は推測した。

夕食後ホテルでシャワーを浴び、僕らは適当に中国のテレビ番組を見ながら寝るまでの時間を過ごした。トレンディドラマの中国語が分からなかったので、アルベルトが適当に英語でセリフをつけた。恋愛ドラマのはずがレストランでの食中毒問題にまで(アルベルトの中で)発展し、あまりのめちゃくちゃな展開に爆笑。そして夜11時くらいに就寝。高地での観光って本当に体力使います。寝る時にはまた頭痛と悪寒が少しずつ戻ってきていた。 

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Tibetへ③

M_cimg15841月17日。午前4時前に社内が騒がしくなる。標高約2800mの小規模な新興都市、格尔木(ゴルムド)に着いたためだ。荷物を動かす音に起こされながらも、僕が睡眠の努力を続けているうちに、おじいさんも孫も、軍の学校に通う少年もみんな列車から降りた。ここを過ぎると、大きな駅は終着のラサだけになる。とはいえ、いつの間にか僕もかなり覚醒してしまったので、外に出て記念に写真を一枚。それにここからラサまでは、それまで可能だったデッキでの喫煙も禁じられるとのことだったので、一服しておく。早めの朝食に昨日半分食べて残しておいたチョコパンを食べた後、やることがなくなったので、もう一度就寝。

8時半に僕がまた起床すると、アルベルトはすでに起きていた。でも、あたりはまだ暗い。中国では国内に時差は設定されていない。それが同規模の国土で4つのタイムゾーンを持っているアメリカとの違い。だから、西へ行けばいくほど日の出と日の入りの時刻が遅くなるのだ。僕が二度目の朝食としてアルベルトからもらったメロンパンを食べているころには、地平線から太陽が昇り始めた。家並みからではなく、雲の下からでもなく、地平線から昇る太陽を見るなんて、たぶん生まれて初めての経験だった。空は緑がかった深い青から、少しずつ紺色に変わっていく。

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陽が昇ると、あたりの様子がだんだん分かってきた。列車はおそらく4000mを超えるであろう高原地帯を走り、昨日を通して変わらなかった灰色の街並みや荒れ果てた土地はすでにそこにはなかった。冬の間に、黄色くなった草原の中にたくさんの小さな名前の分からない動物が見える。M_cimg1594_2 空や湖はそれまでと違う青だ。

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同室の人が自分たち以外にいなくなった僕らは、本当にやることがなくなったので、景色の写真をたくさんとったり、読書を継続したりした。僕は、グレート・ギャツビーの語り手、ニック・キャラウェイのクールさにいつものように心酔し、村上春樹作品の主人公のひな形を見ているような気持ちになり、ギャツビーが、過去を変えることは「できるに決まっているじゃないですか!」という場面で、いつもと同じように感嘆して笑った。アルベルトも相変わらずガルシア・マルケスを読みながらたびたび笑っていた。

ひまつぶしに車内を歩いてみると、チベット系の人が多くなっている。彼らは、空気の薄い高原の強い太陽によって焼かれた肌を持ち、ある場合には一目でそれと分かる衣装を着ていた。それにどこから乗ってきたのか、あるいは最初からいたのに目につかなかったのか欧米人らしい旅行客の姿もちらほら。車両では、何度も耳障りな電子音がスピーカーから鳴り響き、僕らの読書や車内、社外の観察に水を差した。M_cimg1608

お昼御飯に車内販売のあまりおいしくない弁当を食べたあとくらいから、徐々に外には放牧されている家畜(主にヤク)の群れが見えるようになり、僕らがラサに近づいていることを知らせた。M_cimg1606 そして夕御飯を食べ終わるころ、社内がだんだんあわただしくなった。スピーカーからは、到着間近であることを告げる(?)チャイニーズポップス。乗務員が車内の清掃をはじめて、デッキにてなぜか禁止であるはずの喫煙を彼ら自ら始めた。列車の窓からは信じられないくらいきれいな川が流れているのが見えて、世界最高峰の山々から直に注ぐこの地の水が、中国ではおそらく最もきれいなものなんだろうと思った。M_cimg1622

ラサ駅はポタラ宮の様式を模した新しい駅で、静かで大きかった。僕らはそこで現地で僕らの入境許可を取得したガイドのビャンバと会い、市の中心であるジョカンの近くにあるホテルに向かった。彼はラサ生まれのラサ育ちで、英語はかなり上手かった。チベットにおける最大の産業である観光に携わるために努力して身につけたものだ。途中、ポタラ宮の前を通ったときに、ライトアップされた宮殿を撮影。ホテルは、客がほとんどいなくて、仏像がおいてある踊り場以外、廊下はほぼ真っ暗だった。M_cimg1628

それから僕らは、少し身体を高地にならすことも含めて、ジョカンの周囲にあるバザールのエリアを散策した。すべての街角に銃をむき出しにした警官が立っていて、去年3月の暴動以来の厳戒態勢を物語っていた。10人くらいの警官に阻まれて、通行ができない路地もかなりあるようだった。一方で夜のバザールはチベットの人たちの庶民的な親密さであふれていた。バザールには至る所に地元の若者たちがひしめくビリヤード場があって、女性は道で立ち話をしていて、子供は9時近くにも関わらず街の中を走り回っていた。M_cimg1631 M_cimg1633 僕が撮影した右の写真の子供たちは、僕らに犬を100元で買わないかい?と話しかけてきた。良くも悪くもいわゆる”観光地”のとても元気な子供たちといった感じである。デジカメで撮った彼らの写真を興味しんしんで見せてくれと言ってきたので、「大丈夫。君たちはハンサムだ。」と言っておいた。

ホテルに戻ると、お湯が出ないので、僕らはものすごく我慢して冷たいシャワーを浴びた。丸二日間列車の中で顔も満足に洗ってなかったし、パスするなんていう選択肢は存在しなかったのだ。その後僕はルームサービスでチベットビールを注文し、一人で少しだけ飲んでグレート・ギャッツビーの続きを読んだ。実際のところ年始に一度読み終えていたこの小説はこの夜また何とも形容しがたい結末まで進み、僕にいろんなことを考えさせた。僕は幸か不幸か、高校のときに初めて読んだこの小説を、ある意味ではより強い客観性を自分の中に見出しながら、同時により強い共感を感じながら読めるようになっていることに気づいた。人生ってやっぱり不思議だと思う。少なくとも、僕はこんな夜がいつか訪れることを予期できる材料なんて一切持ち得なかった。なんせ25歳で、ようやく”卒業”で、なぜかチベットで、スペイン人の友達が隣のベッドで寝ている状況で、僕が近い将来に30歳になるっていうのがどういうことなのか、1920年代のアメリカ小説を参照しつつ、考えをめぐらさなきゃならないんだから。それも誰に強要されたわけでもなく。

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Tibetへ②

1月16日。翌朝7時に明かりがともされると、車両が突然騒がしくなった。みんなトイレと洗面台に直行。長蛇の列。就寝・起床の合図にとっても律儀な乗客たちである。僕も寝続けられそうな感じではなかったので、北京のセブンイレブンで購入しておいたチョコパンを朝食として食べる。アルベルトが、水筒とコーヒーのパックを持ってきておいてくれたので、給湯器からお湯をもらってコーヒーも飲むことができた。彼は、セブンイレブンのチョコチップメロンパンが大好物らしく、それを3つも持ってきていた。僕が「これは”メロンパン”の一種で、日本では特に子供たちの間でとても人気なんだ。」と教えてあげると、「でもメロンの味はしない」と言っていた。僕はチョコがたくさん入っているせいじゃないかと言っておいたけど、メロンパンってはたしてほんとにメロンの味がするのかどうか実際のところ確信が持てない。

M_cimg1566その間も列車は走る。景色は単調、そしてなんともgray。大気の汚M_cimg1568染のせいなのか、単純に霧とか雲のせいなのか、見通しの悪い灰色の空と、乾燥して荒れた土地、そして古く地味な色調の建物が並ぶ。僕は依然訪れたドイツやスイス、フランスの田舎の風景を対照的に思い出す。どこまでも規則正しく植えられた畑、かわいらしい家々、鮮やかな山並み、湖。それに比べたら、なんて”貧しい”景色だろう。僕らは一度、まっ黒で湯気の出ている川を見た。The River Runs Blackである。

お昼前に、列車は西安に到着。そこで、ファッショナブルな若い乗客の多くが降りて、もっと地味な新しい乗客がやってきた。僕らと同じ部屋になったのは、確実にお金をそれほど持ってはいなさそうなおじいさんと多分その孫。そして軍の学校に通っているという、気さくな若者。孫はずっと”ゲームボーイ以前”と思われるような、ローテクなポータブルゲームに夢中になっていたけど、一方でどうやら僕らに(特にアルベルトに)興味しんしん。実際中国の一般人にとっては、欧米人はいまだに奇異な存在であるようだ。アルベルトはよく、北京の街中で突然写真を一緒に撮ってくれって言われたりしていたみたいだし。僕らの方をちらちら見ているので、僕がドイツブランドのチョコレートを分けてあげると、英語で話しかけてきた。僕らはそれに仰天。後でわかったことだが、彼は11歳の小学生。真赤な頬はいかにもステレオタイプな中国の田舎の子供といった感じだったけど、短い髪にはたくさん白髪が混じっていて、おじいさんと彼自身の身なりと併せて、なんだか貧しさを連想させた。だけど、彼の英語はなかなかのもので、彼自身「英語の勉強が好き」なんだと言っていた。このとき僕は、またもや日本の英語教育の非生産性がもたらす結果を憂いた。一方で、チョコレートをだしにして子供をあやす僕らは、戦後日本にやってきたアメリカ兵みたいだとも思った。彼はそれを本当においしそうに食べて、その様子を黙ってみていたおじいさんは、蘭州だか洛陽だかの駅で買ったパッションフルーツを僕らに分けてくれた。 M_cimg1574

その間にも、景色はあまりきれいとはいえない街と乾燥した土地を繰り返した。僕らは適当におしゃべりをしたり、本を読んだりして時間をつぶした。M_cimg1575 なぜか真剣にステレオタイプまじりでジプシー文化についての話をした時間もあった。「彼らは今だけを生きている。明らかにそのあたりの価値観が違うんだ」というのがひとまずアルベルトの見解。彼らはヨーロッパ社会において底辺層を形作り、超がつくほどの保守性と、教育やその他自己投資の意識の欠如、秘密主義的な独自の言語と慣習によって社会からたびたび侮蔑の目で見られるらしい。明らかに前提知識の少ない僕だったけど、彼らが社会の全体としての流れに捉われずに、独自の価値観で今を生きることができるなら、もしかしたら彼らは僕らより幸せなのかもしれないと思った。

M_cimg1614 アルベルトはガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録(?)」を読み、僕は中国まで持ってきていた唯一の小説、フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を読んだ。アルベルトは読みながらなぜかたびたび爆笑していた。僕はたびたび「ニューヨークってやっぱり最高だよな」とか「次に付き合う女性のイメージはやっぱりジョ―ダン・ベイカー」とか呟き始めて彼の読書の邪魔をしようとした。そして僕らが食堂車で晩御飯を食べるころ列車は西寧に到着し、10時の消灯のあと、今度は昨日より少し苦労して眠りについた。

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Tibetへ①

出発

1月15日。Take Home Examを気持ちよく終えた僕とアルベルトは、清華大学の外国人学生寮をチェックアウトし、午後8時に北京西駅へ向かった。目当てのラサ行きの電車は午後9時半に北京西を出ることになっている。それから約47時間かけて、僕らはチベットへ向かうのだ。

北京西駅はその名の通り、北京から西へ向かう多くの路線のターミナル駅。北京は中国の東北部にあるから、西の国境までは本当に遠く、進めば進むほど僻地になる。南西部にあるラサに着くと、僕らは中国をほとんど斜めに横断することになる。つまり僕にとっては、この旅は夏のアメリカ横断旅行の中国版ショートバージョンである。

M_cimg1555北京西駅は東京で言ったら、東北方面に向かう上野駅くらいの位置づけだろうか。中国風建築様式の巨大な駅で、一見したところたぶん新宿駅と同じくらいの大きさで、本当に立派。春節前の帰省ラッシュに入っている関係で、駅はとんでもない大混雑。人の多さに加えて、一人ひとりの荷物の量もはんぱじゃない。通路わきには、電車を待つ人たちがたくさん地べたに腰をおろしていて、テレビなどの家電の段ボールを引きずっている人もいる。高度成長時代の上野駅ってこんな感じだったんだろうか。

僕らはラサ行きの電車が出る10番待合室に向かった。10番プラットフォームではない。北京西駅では、各路線に待合室なるものが設けられており、切符をチェックされたあとで廊下を進むと、カーテンのひかれた大きなステージのある広間に出る。これからショーでも始まるかのような雰囲気。それから両側にカーテン、そして赤じゅうたんのひかれた廊下をさらに通過して、ようやくプラットフォームに出る。アルベルトいわく、「Soviet style」の構造。僕はとにかく、ステージ上から汽車でも登場しそうな雰囲気にさっそく度肝を抜かれた。この造りのおかげで電車に乗ることが必要以上に儀式的になるのだ。M_cimg1558

僕らの席は3両目の硬臥車。僕は最高級である軟臥車を希望したのに、チベットへの入境許可を申請するために代理店に連絡した僕らのアドバイザーがなぜか1ランク下の席を申し込んだためだ。車両は予想以上に清潔な雰囲気で、トイレ二つに洗面台が三つ、それに熱湯の出るタップもついている。アルベルトは三段の一番下、僕は真ん中のスリーパーだった。乗客も予想以上に普通な雰囲気。若いし、行儀も悪くないし、全体的には清華大学の学生たちよりずっとファッショナブルである。硬臥より安く、スリーパーじゃない普通の席の車両もたくさんあるので、貧しい人たちはそちらに乗るのだろう。

列車が動き出すと、僕らはマクスウェルのプログラムが本日のテストを持ってすべて終わったこと、そして旅の始まりをビールで乾杯。10時過ぎに車両が消灯されると、僕らはビールの勢いを借りつつ、睡眠不足を取り戻すかのように爆睡体制に突入した。

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ペーパー終了

たった今最後に残ったCui教授のTake Home Examを提出して、ついについに、僕の大学院生としての全日程が終了しました。この2週間くらい、ほぼ食堂と自分の部屋の往復だけだったし、とにかく熱いため息が出ますw。

やっぱり全体的に僕の大学院生活ってけっこうギリギリだったという感じがします。実は今から2時間後に寮をチェックアウトして、そのまま国内旅行に行く手はずになっているからです。これからシャワーを浴びて、パッキングを済ませてということを考えると、いろいろなことを咀嚼している時間はなさそうです。

旅行から帰ってきたらその足で日本に向かうので、ひとまず次のエントリーはおそらく実家から、卒業旅行第一弾
について書きたいと思います。心の片隅ででも、一瞬でも、がんばれよって思ってくれた方、ほんとにありがとうございました。気持ち良くなるくらいきつかったです!w

というわけで

やったーーーーーー!!!

そして行ってきます!!

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こうして大人になるのか、ならないのか

こんなことをだらだら書いても仕方がないことは分かっているんだけど、ペーパーを連日やり続けて疲れているはずなのに寝付けないので気晴らしに。

今日友達とごはんを食っていて、夏の間の彼のジュネーブ生活について聞いた。ジョギングをしていたら気付かないうちにフランス国境をまたいでいて、帰り道に突然IDを要求された話とか。大家の76歳のおばあさんがさびしさのせいなのか午前3時に話しかけてくるっていう異常な事態とか。面白いポイントはたくさんあったんだけど、彼いわくジュネーブの生活はなかなか大変だったみたい。もちろんスイス特有の物価の異常な高さとかそういう面もあるんだけど、それより何よりクラスメートが去った後、もともと知っている人が誰もいない土地で仕事を1ヶ月間も続けたのが厳しかったと言っていた。僕からすればものすごくオープンで誰とでもうちとける彼だけど、たまたま運が悪くて良い出会いに恵まれなかったのだと。国際機関がたくさんあるって言っても、規模はたかが知れてる小さな街で、一人で特にやることもなくたまに人を見るためにスターバックスに行ったって笑いながら言っていた。久しぶりに本気でさびしくなったよと。

生まれ育ったところからそれなりに遠い土地に身を置きながらも、実際のところ僕はこの1年半の間、ほとんど寂しさを感じてこなかった気がする。少なくとも、東京とその近郊で一人暮らしをしていた大学学部時代の3年間よりは全然さびしくなかった。ポジティブに考えたら年をとったこととか、留学生活が忙しすぎたこととかもあるんだろうけど。たぶん何より、ずっとルームメイトがいたことが大きい。電話の声が耳に障ったり、台所を使う順番やら、僕のおなかの緊急時にトイレが使用中だとか、いろいろ問題はあったとはいえ、彼らと総じて気楽な関係を持てたこと、単純に彼らがそばにいたことはおそらくもともと微妙に繊細なところがある気がする自分の精神的な安定に大きく貢献していたんじゃないかと思う。帰国の際も実家に帰ったわけだし、旅行中の宿泊先もドミトリーだったし、思えば「一人の夜」みたいな状況は、おそらくボストンのホテル滞在を除けばほとんどなかったと言っても過言ではない。

そういうことがあって、僕はどちらかというと今年再度やることになるであろう一人暮らしのイメージをなかなかうまく描けないでいる。むしろ仕事のことを心配しろとか、バケーションのプランに専念しろっていう突っ込みも自分で入るんだけど、東京での一人暮らしってどうにもこうにも孤独なイメージがつきまとってしまう。これは、僕が精神的におそらく最も不安定だった3年間と一人暮らしの時期が重なっているせいで「東京一人暮らし」自体のイメージがある程度悲惨になっているせいなのかw、あるいは東京では誰もがそれなりに孤独と戦っているのか、そんなことは全然なくて社会人としてもう一度やってみたら全然楽しいものなのか分からないんだけど。

いずれにせよ、自分の国に、おそらく一番親しくて会いたいと思っている友人たちが住む土地に戻るというのに、なぜか生活における寂しさの心配を始めてしまっている自分の矛盾を吐露してみたかっただけです。自分って、人間ってほんとに不思議なものですねw。寂しさについてなんて、ほんとに1年くらい考えもしなかったから。

でもきっと、寂しさとか一人身の退屈さだとかそういうものとそれなりに向き合っていく中で、意識するとせざるとにかかわらず家庭を持つことの価値みたいなのって見え始めてくるのかなっていう気はします。それにもちろん好きな人ができることによっても。そこら辺の成り行き次第では、あるいはまた海外に逃げることの価値が見えるのかもw。そういう感じで、たぶん欠乏も自分を一歩動かす原動力になっていくのでしょう。そんなこんなで、なんだか半歩くらいアラサ―的発想に足を踏み入れてる気がする自分です。

いずれにせよ、できることなら素敵な未来を想像しよう。なんせ新しい年だしね。
Brian Wilson "Your Imagination"

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今こそ留学のとき

と言っても、10日後に帰国を控えている僕のことじゃありませんw。

Global Financial Crisis Upends the Plans of Many South Koreans to Study Abroad
NY Times

就職氷河期の再来とか、内定取り消しブームとか、今回の金融危機のような経済変動がある世代を被害者にしてしまう事例に僕は最近より一層興味を深めています。4月からの職場が滑り込みで決まったとはいえ、おそらく僕もその影響を少なからず受けた当事者だと思うし。周りは僕が採用側なら有無を言わさずとりたいのに職が決まらない求職者がたくさんいるし。とにかくリアルなんです。そして上記の記事も。

教育熱心で知られるお隣韓国。シラキュース大でも韓国人留学生の人数の多さには驚いたけど、北京でもそう。清華大学の留学生のmajorityは他を大きく突き放して韓国人です。お金があるお家の子供はアメリカとかイギリスの大学へ、それが無理だったらオーストラリアへ、おそらく好みの問題とかもあって日本へ、それより安く英語を学べるマレーシアへ、フィリピンへ。あるいは金銭面の制約、そして将来のことを戦略的に考えて、大きく発展している中国へ...という具合で2007年の韓国人海外留学生の総数は35万人にまで上った。日本と比べたら、どれだけすごいかよく分かります。

文部科学省 日本人の海外留学者数

これは2003年までのデータしかないけど、2000年前後からほとんど変わっていないことを考えると、現在も同程度なんじゃないかな。そもそも全体の人口を考えると、日本は韓国の約3倍、でも海外留学者数の数は1/5だから、韓国の学生たちがいかに海外での学びに積極的か浮き彫りです。記事によると、アメリカでも一番多いのは中国じゃなくて韓国の留学生なんだね。

これは統計に基づいたものじゃないけど、僕のイメージでは、韓国の学生はやっぱり勤勉だし、勉強ができる。マクスウェルでも、抜群の成績とお茶目な性格で僕が師匠と仰いでいたのは韓国のキャリア官僚の人だったし、これまたいろんな国や年齢の人がいる中国語のクラスでも一番成績が良いのは韓国の女子大に通ってる子。もちろん、これだけたくさんの韓国人留学生がいると、なんとなくつるんでるところとか週末に仲良く飲み会している様子も見える。でも、HSK(中国語版TOEFLのようなもの)対策を行っている近所の予備校に夜通っている生徒の大部分は韓国人らしいし、彼らはきちんと将来を考えて、やるべきことを見据えて取り組んでいる人たちなんだというイメージがある。

実際、ちょっと前に韓国人のクラスメートと飲んだときにも、彼女が中国語をきちんと自分のスキルにしたい、本当に厳しい就職戦線で少しでも役立てるものにしたいって考えていることにちょっと感銘をうけた。もしかしたら世界一かもしれない受験競争の激しさで知られている韓国だけど、就職活動も相当厳しいのだろう。もちろん若者が感じている精神的ストレスの度合いは半端じゃないのだろうけど、その中で一歩前に出ようっていう前向きさと、多少の出費は厭わない親の教育熱心ぶりと、そんな親や環境から離れて暮らしたいっていう思春期的感情がw、彼らを海外に駆り立てているんじゃないかなっていう気がする。

でも、そんな留学ブームに冷や水を浴びせかけたのが、金融危機による急速なウォン安。ここ数か月で、ウォンは対ドルレートで約1.5倍 ― つまり、彼らがアメリカ留学に必要な予算が1.5倍になったことになる。ウォンは他の通貨に対しても軒並み価値を下げている。最近のウォン安による韓国旅行ブームはカウンターバランスとして働く部分があるけど、気軽に旅行に行けるようになったかの地では、海外留学の夢を断たれた多くの若者たちが、今、たぶん、眠れない夜を過ごしている。

一方円高で、輸出企業の危機にさらされている日本だけど。そんな今こそ、お隣韓国を見習うときなんじゃないかな。就職活動で苦しんでいる学生たち、これからの就職活動に大きな不安を抱えている人、あるいは転職したいけど今辞めたらまずそうだと思っている社会人の方、解雇の対象になってしまった人、ちょっと日本の外に目を向ければ、僕がそうした1年半前よりもずっとリーズナブルな学びの機会が転がっている。今年アメリカの著名MBAプログラムは、金融機関をはじめとする一流企業から放出された志願者が競争している関係で空前の高倍率になっているって話だけど。それでも、通貨安によって今年の出願をあきらめている学生が世界中にたくさんいるってことも事実だし、全体的にはまさに今こそ留学のときだと思います。近い将来の見通しがぼやけている今こそ、教育を受ける機会とか、海外に身を置く機会とか、そういう選択肢をより長期的な視点で考えてみてもいいんじゃないかって思います。

それにしても、韓国での海外留学ブームを考えると、そして僕の1年半を考えると、やっぱり将来たぶん持つことになるであろう子供に留学っていう選択肢をきちんと与えてあげたいっていう気になる。自分のようにゲーム大好きで、家にいるのが大好きな子だったら、中学3年のときに僕が市のオーストラリア派遣の話を迷わず断ったように、まず自分から行くとは言いださないかもしれないw。でも、大きくなっていく過程で、いろいろ自分の経験について聞かせてあげたい。そのころには、僕の中ですでに留学してほんとに良かったって思っている今以上に、この1年半の思い出が輝いているんだろう。

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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

とはいっても、中国では新年は日本で言う旧正月、中国では春節と呼ばれる2月なので、民間企業の方等は1月1日なども特に関係なく働いているらしいです。僕も今日は大学院の最後の授業があってそれを受けてきました。とても好きだったCui教授の授業。最後までチャームに満ちた笑みを浮かべながらとりとめのない話をしていました。ただ彼自身も言っていたように、当授業では経済発展とガバナンスに関するいろいろなイシューを盛るだけ盛り込んでいて、かなりopen-endedな内容になっており、こちらとしても学んだことを消化していくのに時間がかかりそうな感じです。いずれにせよdevelopmentについては一生勉強していこうと思っていたし、授業でやったことをときおり当ブログを通じてでも反すうしながら今後もやっていきたいと思います。

しかし時は流れて2009年。あと1年で2010年っていうのがなんだか信じられない。時はどんどん加速している気がします。
いずれにせよ、僕にとっては社会に出るというまたもや大きな転換の年になります。今はその前のバケーションに何をするかとか、東京でどこに住むかとか、そういうことで頭がいっぱいですがw。

最近あまりまともなことをかけていませんが、最後のペーパーやら引っ越しやらが終わり次第、またいろいろ書いていければいいなと思っています。就職などの関係でこれまでのようにはいかないかもしれないけど、やっぱりこういう媒体でのアウトプットとかやりとりは自分が何か学んでいく上でほんとに有意義だと思っておりますので、楽しみつつ続けていきます。

今年もどうぞよろしくお願いします。

2009年も皆さんにとって良い年でありますように。

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