遠くまで
最近、日経ビジネスに宗教人類学者の植島啓司さんの記事が二回ほど載った。
僕は旅人でもないし、ギャンブラーでもなければ、特定の宗教も今のところ信じていないし、将来的にはそりゃあ保険にも入るだろうけど、植島氏が語っていることの全体的な印象は、なんだか妙にしっくりきた。
宗教と科学は何が違うかといえば、反復可能性、実証可能性の問題に尽きます。科学では同じことが2度起こらないと証明になりません。しかし、宗教的なことがらは1回しか起こらない。仏陀の悟りもイエスの生涯も1度きりです。宗教はずっと“1回性”を問題にしている。だから宗教と科学は永遠に交わらない。
なぜあのときにその人と出会ったのか。そんな出来事がなぜその場所で起きたのか。そうした問いに対して、科学は可能な範囲で説明できるだけで、本当のことは何もわからない。科学や理性は現実に対しつねに周回遅れのランナーなのです。
どうせ1回しか生きられない人生なんですから、先頭を走るランナーにならなければおもしろくないでしょう? 誰だって100年も生きることはできないんですから。
僕はこの一年余り、それなりに忙しい生活するなかで、「何をすべきか」っていうことを、それを実際に実行できるできないを問わず、それなりに合理的に考えることに慣れてきた。
でも一方で、自分の人生観に関してはおそろしく場当たりな面がある。別に達観とか諦観とかじゃなく、僕はたとえば最初の職場やポジションにしろ「自分に与えられたものをとろう」っていう妙な覚悟がずっとあるし、ある意味流されて生きていくイメージが自分の中にしっかりと根付いている。
だからこそ、これまでの自分の経歴はレジュメのフォーマットに落とし込んだりするには全く不向きなつぎはぎだらけのものになったのかもしれないけど。でも一方で、自分の人生でほんとの後悔みたいなものはないって言いきれる。なぜなら、僕はそのときそのときに自分にいろんな行動を起こさせた”ただ一回のフィーリング”を、たぶんやりすぎなくらいにリスペクトしてきたから。
最近僕は「人生は一回きり」みたいな陳腐な表現にとても惹かれているんだけど、だからこそ精一杯がんばろうとかそういうことを意識しているわけでもない気がする。1回だけっていうのは、どちらかというと僕には気楽にひびく。それなら、どこまでも流されて自分が予想しなかった、設計の枠外の遠くまで行ってみたいって。少なくとも自分にとって、どこかに行きつくために一番大事なのは、意識的に何かを追い続けることより、偶然を、それによって自分に与えられたものを受け入れ続けることのような気がしている。
でも、老後のラフな設計だけはある。それは実際に歌うかどうかは別として、こんな歌を本気で歌えるおじいさんになること。正直これ見て何度も一人で泣いていましたw。
他界する3年前のベストアクトです。
Arthur Lee & Love
"Old Man"




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