”自由”を求めて
ようやく明日は金曜日。たとえ平日にやりきれなかった課題や就職活動関連の作業に大部分は費やされると分かっていても、週末が近付いてきたことがとってもうれしい。先の秋学期、春学期と違って、平日は毎日授業があるし、朝8時から午後5時までぎっしり詰まっている日もある。忙しいけど、でも少数の授業の準備をするためにずっと自己管理を強いられる生活と比べて楽な部分もあるのかもしれない。何より週末がうれしいっていう普通の感覚が研ぎ澄まされること自体がうれしい。あー、来年はほんとに働きたい。
それはそうと、友人のこころにいばらくんの最近の記事「自由主義に触れて」を読んで、ちょっと思ったことがあったのでそれについて。例によって僕の知識の丈にそぐわない大きすぎるテーマだし、乱文になってしまったことをあらかじめお詫びしておきます。
最近、"Governance and Development"のCui教授の授業のアサインメントとして、この超有名らしい論文を読んだ。
Amartya Sen
"Development: Which Way Now?"
The Economic Journal, Vol. 93, No. 372. (Dec., 1983), pp. 745-762.
JSTOR:PDF download
記事が出されたのは1983年。フリードマンらによる新古典派経済学の復興が、Reaganomicsによってさらに勢いを得た時代といえるかもしれない。論文の中でセン自身が指摘しているように、アジアの虎と呼ばれる台湾、香港、シンガポール、韓国の4地域の台頭が開放によって貿易と対外直接投資という市場の力を徹底的に活用するものであったことから、”開発経済学”という分野にも新古典派が影響力を強めた時期であった。世界銀行・IMFが資金援助・貸与の際のコンディショナリティーを使って、途上国の政府機関を次々に民営化させていく、いわゆるstructural adjustment(構造調整)を強力に推し進めていったのがこの頃からだという事実も、新古典派の大きな影響が見て取れる。つまり、途上国には先進国とは別の理論的枠組みを当てはめることが適切であるという前提から、古典派経済学とは距離をおいて戦後少しずつ理論を積み重ねていった開発経済学という若い学問が息絶える寸前まで追いつめられた時期であった。
”ケインズ革命”の熱がさめやらないケンブリッジで経済学を学び、1960年代には母国インドの計画経済プランの策定にも携わったセンは、開発経済学の黎明に最も大きな貢献をした学者の一人、Albert Hirschmanとも親交が深かった。つまり、新古典派の隆盛と、それと共に高まる開発経済学批判を背景に、ケインジアンの影響下にあるセンが、自身の開発経済学批判と同時に救済を行う形で送り出したのが当論文。ここでセンが語った"entitlement approach"は、後の開発経済学に対する最大の貢献であり、論文の発表から25年が過ぎた今でも輝きを失っていないという。
当論文の中にもいくつかの論旨があるのだけど、そのうちの一つで最も重要なのが、「”経済成長”は”経済発展”とは別のものである」という点。センは開発経済学の限界は、”経済成長”のための手段の選択にあるのではなく、”経済成長”がそれとは別の目的にたどりつくための一つの方法にすぎないことを十分に認識していなかった点にあると主張した。
この別の目的が何かってところがミソなんだけど。たとえば、センは健やかに長生きすること≒平均寿命の長さを例に出す。1980年の時点で、一人当たり平均所得の目安である一人当たりGDPが2,050であるブラジルの平均寿命は63歳。一方、当時まだ最貧国と位置づけられており、一人当たりGDPが290の中国の平均寿命は64歳。一人当たりGDPは数分の一しかない中国人の方がなぜかブラジル人より少しだけ長生きしている。(センは他の国の例も出しているのでもっと説得力があります。)
それなら、平均寿命と”経済成長”はそれほど高い相関関係を持っていないということになる。また別の例を出せば、発展途上国から大きな死の原因になっているマラリアを駆逐することは、平均所得の伸びによって直接的に達成されることじゃない。つまり、”いくつかの重要な目的”を達成する手段としては、「経済成長」はそれほど効果的ではないということになる。
ここで以前当ブログでも書いたことのある、有名な指摘がなされる。伝統的な開発経済学の最大の弱点は、国内生産や、総所得、あるいは特定の財の総供給に焦点を当て、人々の"entitlement"や、そのentitlementが生み出す"capability"に注意を払わなかったことであると。つまり、GDPを代表とする指数に対するフェティシズムに近い執着が、開発経済学が本来追い求めるべきものから目をそむけさせていたとも言える。
entitlementっていうのは日本語訳するのがとても難しい。強引に意訳してみると、
権利と、個人が遭遇する機会のすべてを用いて、個人が特定の社会において行使することができる財の総体
ぐらいになるのかな。
このentitlementが増すことは、人々の”capability”を増すことにつながる。capabilityっていう言葉は”能力”と共に、「可能性、将来性」を意味する。つまり、開発経済学のテーマは、そしておそらく「発展」の意味するところは、最終的には「すべての人の人生における”可能性”の拡大」であるということになるのだ。
センは開発経済学のテーマをマルクスの言葉を引用してこう言う。
"replacing the domination of circumstances and chance over individuals by the domination of individuals over chance and circumstances"
センのアイデアを応用する論理的危険を承知した上で考える。
「あなたは豊かであるか」という問いがあまり意味をなさないのは、それが僕らの関心から実際問題としてかけ離れているからではないのか。”モノを買う力があること”は間違いなく重要だ。なんせ、おかねがなくて欲しいものが手に入らないってことは日常茶飯事だから。でも、結局それは重要な問題の一部でしかない。大事なのは、僕たちがどれだけ偶然と環境という猛威に立ち向かえているのか、あるいは個人として現在に、未来にどれだけの可能性を描けているのかっていうことではないだろうか。
ここで僕は”自由”という言葉にぶつかる。そして読まないまま実家の本棚にある、センの後年の著書、"Development as Freedom"を思い出す。80年代初期に伝統的な開発経済学を脅威にさらした新古典派。その代表的な研究者とみなされるミルトン・フリードマンが掲げたのが「自由主義」である。
彼にとっては「自由」こそがすべてであって、経済の発展は副次的なものであるなら、
個人が価値があると思えるものを追及することを認め、促進するのが自由主義であるのなら、
この全く思想的潮流やアプローチを異にする二人のノーベル賞受賞者にきわどい世界観の重複を見てしまうのは僕だけだろうか。
アメリカ型資本主義の終焉とか、中国型社会市場経済の隆盛とか、その行方に対する興味はつきない。だけど、もっと根本的な問題に立ちかえって、一般的な意味で、より良い社会の仕組みの総体を模索していくにあたって、僕たちは何を目標にすればよいのだろう。僕たちが自由であるのは、僕たちが個人として”可能性”を持てるのは一体どういう社会においてなのか。これ自体、なんて難解な問いなんだろう。僕たちがのろのろとこの問題を追いかけるより速く、僕たちの世界は回り、変わっていってしまうような気もする。
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コメント
qinmuはその「きわどい世界観の重複」をどう考える?僕はフリードマンを読んで、思想がどっちまわりだろうと、「目的」は一緒なんだということを改めて認識したつもりです。彼らの「目的」は正しく、美しいと思う。アマルティア・センなんて経済学部出身の僕ですら正直初めて聞いた名前ですが、wikipediaですら普通にぐっときたよ笑。だからって、両者がなあなあになるべきとも思わないけどね。
これはブログには書かなかったんだけれど、どういう経済政策をとるにせよ、そのおこぼれに預かろうとする人って必ず出てくると思うんだ。そういう「利権に群がる人」は経済政策を自分の利益のために利用しようとする。僕がブログで述べた「自由主義=規制緩和による経済発展」という曲解がここまで一般化されてしまったのも、そう認識されたほうがありがたいと考える存在がPRした結果なのではないかなとか、そんなことを思ってしまうんだよね。もちろん、それ自体がそこまで悪いとは思わないんだけど、行き過ぎると必ず破綻をきたすんじゃないかな。
世界が回るのははやいよーほんと笑
投稿: ここいば | 2008年10月10日 (金) 10時34分
センはほんとテンション上るよ。解説書とか著書を今後読んでいきたいな。きっと世界観の重複は実際にはきわどくもないんともないんだろうね。なんというか、経済学者だけじゃなくてあらゆる社会科学者が理想とする世界って、無慈悲な偶然とか状況、環境からの個人の解放=”自由”なんだろうなぁって。個人の解放ってあたりから脈々と続く西洋哲学の伝統をもろに感じるけどね。恐らく彼がいなかったら人とか世界を考えるすべての領域が今の形をとっていないと思われる、かのマルクスが100年以上前に言ったことだしさw。
でもさ、今の世界経済の急降下を考えると、それは基本的には誰も予測なんてできてなかったわけで、それも誰も予測してなかったスピードで状況が変わっていってるわけだよね。今年上半期の原油の最高額更新とかそれに伴うコモディティのインフレだって異常だったのに、もうすでにOPECが緊急会合を開かなきゃならないくらい原油の値段が落ち込んでるっていう。わずか2か月くらいの間にだよ。それってさ、結局少なくとも一部では頭がいい人たちがたくさん集まって、頭を使って世界を良くしようとしてるはずなのに、自分らは一切予期せぬ無慈悲な偶然から逃れられていないっていうかむしろどんどん絡み取られてるんじゃないかって気がするんだよなぁ。こういう風にイメージ先行で考えると具体的に何をすればいいのかが見えにくくなる危険性もあるけどね。
そのPRの発想は、まさに前回書いたReichの企業ロビーの話とつながっていきそうなところだね。イデオロギーってやっぱりrent seekingに利用される側面は大きい思う。
話はちょっとずれるけど、センだって彼のアイデアを実務に置き換える過程で本来の深みを失わざるを得なかった側面があるんだよ。UNDPが出してるHuman Development Indexってセンのentitlementの考え方を元にセン自身が関わって作った指標なんだけど、結局便宜的にGDP以外に識字率とか寿命に重みを加えて”発展”の度合を測る指標を作っちゃったわけでさ。それって新たな数字に対するフェティシズムっていうか、もちろん定量化しないと開発の仕事がしにくいのは分るけど、確実にもっと広がりを持っていた彼のアイデアの本質からは離れていく行為だと思うんだよね。そういう風に、一つのアイデアとか思想って現実世界では便宜性のしわざによって、どんどん形を変えてしまうものなのかもしれないって思います。まさに伝言ゲームみたいにさ。
投稿: qinmu | 2008年10月11日 (土) 00時14分
「”発展”の度合を測る指標」ね。この一種の「妥協」に関しては仕方ない部分が大きいよね。その「指標」を満たせなければ、開発にセン自身が関れなくなっちゃうんだろうし。そうなったら身も蓋もない。本質を貫くために、本質から遠ざからなくちゃいけない。。うーん、なんか、これ、就職活動みたいだな笑。現実とは厳しいねえ。
投稿: ここいば | 2008年10月11日 (土) 15時57分