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2008年8月

夏の終わりはどこへ

8月31日日曜日。実は僕は一時帰国以前から、この日にとても微妙な気持ちになるのではないかと想像していた。小学校、中学校の9年間を通じて身体に沁みついた”8月31日”。僕は正直なところ昔からかなり要領が良い方だったので、この日に夏休みの宿題に追われた記憶はあまりないのだけど、たぶんそういうこととは関係なく、長い長い休みの終わりであるこの日に、なんだか季節の断崖絶壁に立たされているような、特別な気持ちをかみしめたことをよく覚えている。暦の上でも、明日から9月。そして秋。

あだち充のH2にも、この日を彩るあまりにも素敵なストーリーがある。幼馴染のひかりからの突然の電話によって、雨の中静かに海を観に行くというエピソード。この日は、会いたい人に会って、あるいは会いたかった海に会って、別に会いたい人と会えなくても何もすることがなくても宿題に追われたとしても、明日からまたがんばろうって静かに意を決するための一日なのだ。少なくともあだち充と僕と、そして日経新聞の”春秋”を書いている方の間では。

春秋 8/31

http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20080830AS1K2900429082008.html

すでに1週間前に始業式を済ませた公立の小中学校が東京都内で150校ほどにのぼる。もちろんこれは全国的な傾向だ。...2011年度以降は新しい学習指導要領で授業時間が約1割増えるから、もっと夏休みは縮むかもしれない。

この動きがゆとり教育の失敗の認識から来る反動ということは確かだろう。僕はデータ等を見たことがないので半信半疑だけど、ゆとり教育導入以降、学力が低下したとここまで言われてるならそれもほんとなんだろう。でも、日本の小中学校の”40日間”という標準的な夏休みの長さは、欧米諸国に比べればもともと長い方じゃない。アメリカの3か月は例外的に長いとしても、むしろほとんどの国より短い。Wikipediaの以下の記事を見ると分かる。

Wikipedia "Summer Vacation"

http://en.wikipedia.org/wiki/Summer_vacation

よく欧米誌で取り上げられている韓国の受験競争や全寮制の予備校などの記事を読んでいると本当に寒々しい思いがする。また、以前、中国の小学校で英語を教えたことがあるアメリカ人同級生から聞いた中国の小学生の話も思い出す。「夏休み?夏は受験のために勉強さ。」という無垢なリアクション、そして頻発する若年者の自殺。東アジア人の勤勉さはよく経済的成功の要因としてあげられるけど、できるだけ多くの情報を若年層に詰め込むことを是として競争したら、それこそ”race to the bottom”になりかねないのではないかと。

8月31日を夏の終わりの特別な日として世代を超えて共有できるかというのは、僕がどんなにセンチメンタルになったとしても、実際のところそれほど大きな問題ではないのだろう。

だけど、年間30000人以上が毎年自殺しているこの国で、単純に社会的なプレッシャーを増やすような傾向を容認することが賢明だとは思えない。もし本当に教育を、社会を良くしようと考えるなら、教えるべきだと思われる内容とカリキュラムを思い切ってひとつひとつ見直して小学校から大学、その後までを視野に入れて受験制度を含めた再構築を行うこと、その上で量の部分の調整をすることが筋ではないのか。

以前このブログでも書いたことがあるけど、僕個人としては「ゆとり教育」の理念自体には尊重すべき点があったと思う。

僕自身、24歳っていう日本ではふつーに働いていることが当たり前の年齢で、「教育」という機会に救われている身だ。だからこそ思うのだけど、僕の中で教育のひとつの重要な意義は、自分自身と、あるいは社会と建設的に向き合うための材料を、人生を通じて提供し続けることにあると思う。だからこそ、一つの例としては、社会人が大学院やその他専門の学校等に戻ってアカデミックな勉強に励むことを日本社会がもっと容認できるようになれば、人生設計や一つ一つの選択に対するゆとりが生まれると考えるし、単純に「学ぶこと」に対する日本人全体の意識の向上にもつながると思う。あと、何度も何度も言うけど、英語教育の大規模な改革は絶対に必要だと思う。

日本において、人材は決定的に重要な資源だったと思うし、今後就労人口が減ることが予想される今、人材の重要性はさらに強く認識されるべきだ。そんな危機感自体は持っていていいけど、その危機感だけで、やむくもに小中学生の拘束時間を増やすことや、学ぶべき情報量を増やすことを正当化はできないはず。

たぶん教育っていうのはすべての人が固有の経験を持っているし、世代を超えて経験談をまじえた本気の議論ができる稀なテーマの一つだと思う。それだけ集積された知があるはずの領域だから、せっかくならみんなの問題意識をもっと公にすること、それを誠実に反映した、教育体系の再編を希望します。

夏休みの宿題と言えば、圧倒的に”自由研究”が印象に残っている。誰もが通過する小学校でそれだけ自由研究を尊重するなら、人生を通して何かを自由に探究していくだけの余裕をくださいと。そういう社会的雰囲気を作りましょうって、ほんとそう思います。

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8年の終わり、その続き

マケインが、running mate(副大統領候補)を発表した。指名されたのはアラスカ州知事の Sarah Palinだった。彼女は44歳の若さで、非常にクリーンなイメージで知られている。何度も年齢の高さをボトルネックとして指摘されてきたマケインが、誕生日に発表したrunning mateが彼女だったことについて僕は「やられたなぁ」という印象。マケインの人選は、ヒラリー・クリントン支持層の票を回収するためと言われている。いずれにせよ、共和党としては初の女性副大統領候補指名らしい。

一方、少し前に発表されたオバマのrunning mateであるJoseph R. Biden Jr.上院議員については、僕はほとんど情報を持っていなかった。外交委員会に所属し、民主党の重鎮でオバマがよく指摘されている外交経験のなさを補足する経験豊かな人、また、オバマと政治的信条も近いらしいけど、僕個人としては守りの人選だなというイメージだった。なんせオバマのrunning mateの長ーいリストにはマケインの盟友であり、共和党において断固イラク戦争反対を貫いてきたChuck Hagel上院議員や、共和党支持者が大多数を占めるカンサス州において絶大な人気を誇る民主党女性知事、Kathleen Sebeliusなどの名前も挙がっていた。彼、彼女に比べればBidenはどうしても地味に見える。

もちろん、マケイン、オバマ共によく指摘されている自らのボトルネックを補った人選なわけだし、マケイン自身が白人、高齢というある意味典型的な候補なわけだから、彼がrunning mateの人選においてオバマより冒険しなきゃいけない理由はあるんだけど。

とにかく今は、8月中に大々的なアンチオバマ・キャンペーンがあったこと、またロシアのグルジア侵攻への対応(オバマは不運にもハワイで一週間の休暇中だった)の違いを通じて、両候補への支持が拮抗している状態。Running mateも出そろい、ついに大統領選は結果を大きく左右するといわれる両大統領候補と副大統領候補同士のディスカッションを含めた最後の戦いに突入していく。相変わらず欧米メディアは、援護射撃に忙しいご様子です。僕はやっぱり、「オバマがんばれ!!」

ところで、先日の党大会で民主党が徹底して強調していた点がある。それは、「Bush Thirdは要らない。Bushの12年は断固拒否しよう。」という点。マケインが伝統的保守層の支持を回収するために、ブッシュ寄りに主張を変更させてきたことを突く戦術らしい。実際、マケインを表紙に採用した今週のThe Economist誌でも、ブッシュ路線と距離を置き、共和党の重鎮でありながら亜流、一匹狼としての本来のマケインに帰ることが勝利へのカギだという指摘があった。共和党からすれば、「目の上のたんこぶ」。民主党からすれば「ただの道化」。イラク戦争を中心とした外交政策の失敗によって、世界中から皮肉にも悪の親玉とみなされ、史上最低レベルの支持率まで落ち込んだ彼の任期も、残すところあと4か月あまりとなった。そのブッシュ大統領の2期8年を見直そうという動きも各メディアで見られるようになった。ちょっと前の記事ですが、

Fareed Zakaria "What Bush Got Right"

http://www.newsweek.com/id/151731

Newsweek国際版編集長Zakariaによるカバーストーリー。彼の主張は明快。民主党、共和党、インディペンデント、外国人、火星人w...あらゆる人々から激情と怒りの対象となったブッシュ政権はすでにいない。非難と反対の的となった一連の外交政策は、彼の第一期目に集中しており、ブッシュ政権は公言していないものの近年明らかに路線を修正・変更してきているということ。論点は以下。

*政権内の人事・パワーバランスの変化

世銀総裁に最初に選ばれたのはPaul Wolfowitz。このひとはネオコンと呼ばれた国際単独主義、介入路線を好むブッシュの側近グループにおける代表的な存在で、経済学のバックグラウンドが一切なかった。しかし、交際していた女性の人事問題でWolfowitzが辞任を余儀なくされてから、優秀・キレ者として知られる元USTRのRobert Zoellickを総裁に任命。政権全体としては、タカ派と目されるDick Cheney副大統領から、運営の中心が明らかにCondoleezza Rice, Robert Gates, Stephen HadleyそしてHank Paulsonなどのプラグマティストに移った。Rice, Gatesを主軸とする外交は明らかに現実主義、対話重視の穏健な路線にシフトしている。(たとえオバマが政権をとっても、Robert Gatesを残留させるべきだという声は強い。)

*国際援助における貢献

政権についた当初、ブッシュ大統領は伝統的な保守らしく、国際援助には興味がないと目されていた。実際最初の2年、HIV/AIDS支援に投入された金額は10億ドルに満たなかったが、今年度は60億ドルを超え、その多くがアフリカに投入される。PEPFAR(AIDS防止のための大統領緊急計画)は超党派の支持を得て、成功した。これら一連の政策は、U2のBonoなどを含む人々から異例の賞賛をうけた。彼らいわく、"George Bush has done much more for Africa than Bill Clinton ever did." 

*中印との現実主義的外交

大統領選の最中、ブッシュはCNNのLarry Kingとの対談で、中国との関係をClinton政権の"a strategic partnership"から、"competitor"へ再定義するとコメント。この時点では、中国に対して対立的アプローチをとると看做され、ネオコンやペンタゴンと同調するイメージが持たれていた。しかし、2001年4月、米軍偵察機と中国戦闘機の衝突事件においては、タカ派の批判を跳ね返して深い謝罪を表明した書簡を送った。その後も、中国の重要性を明らかに認識したうえで中国・台湾関係においてバランスのとれた外交を展開。先日のオリンピックにおいても、欧州各国と異なり(また大統領のボイコットを訴えた民主党のPelosi下院議長とも異なり)、開会式に出席し、人権問題については対話を通じて訴えるという現実主義的な路線を採ったことは記憶に新しい。また、21世紀のもう一つの大国と目されるインドについても、核の民間利用における協調によって新たな局面を開いた。これは、将来のアジアにおけるパラーバランスの安定に大きく貢献すると思われる。

*総括

これらの主張は、ブッシュ政権を擁護するものではない。ブッシュ政権は初期に歴史的なミスをおかし、アメリカに莫大なコストを負わせる結果となった。最も大きな負の遺産の一つが、アメリカはイスラム世界に対立するというイメージを残し続けていること。これは国の安全を大きく低下させた。国内政策においても、ネガティブな側面があった。彼はGDPの2.5%の財政黒字を受け継いだのにもかかわらず現在は3%の赤字となっており、歴史上、最も財政に無責任な大統領となった。しかし、それにも関わらず彼の政策すべてを批判し、覆すことは全く賢明とは言えない。次の大統領は2001年からではなく、2008年の世界をそのままの形で受け継がなければならない。ブッシュ大統領の最大の失敗は、クリントン路線を全面的に否定したことである。次の大統領がなすべきことは、ブッシュ大統領の路線を盲目的に否定することではなく、彼の遺産を冷静に検証し、活かしていくことだ。

もちろん、マケイン、オバマ共に少なくともポーズとしては、ブッシュ路線を否定し対照的な政策を採用することが選挙活動中の、あるいは政権運営初期の中心になるかもしれない。だけど実際の政権運営において、世間のイメージに流されることなくブッシュを引き継ごうというZakariaの主張はとてもまともだと思う。

国際政治雑誌として著名なForeign Policy Magazineにおいても、最新号はブッシュを表紙に起用して彼の外交政策について総括を行っています。「歴史は多くの人がそう思うほど、イラク戦争をネガティブに記録しないだろう」というこれまたセンセーショナルなセンテンスが印象に残ります。興味のある人は、ぜひご一読を。僕もまだちゃんと読んでません。これら一連のブッシュ再評価の波が、共和党マケインにとって多少の追い風になる部分はあるのかもしれないね。

少なくとも、子ブッシュ大統領は激情をぶつけやすく、そして風刺画的に描かれやすい大統領だったことは間違いないと思う。以前どこかで、「オバマが大統領になったら、ワイドショーで大統領に関連するブラックジョークが言いにくくなる。」みたいなコメントを読んだ気がするけど、クリーンで、ともすれば超然としているようにも見えるオバマと比較すれば、ブッシュは明らかにお茶の間で親しまれやすい人であった。僕はマイケル・ムーアの映画なんかもわりと好きだけど、その反面と言っていいのか、あるいはムーアのせいなのか、ブッシュにはなんとも形容しがたい親近感、親しみのようなものを持っている。

8月7日。ブッシュ大統領は中国を除いたアジア外遊の最後の国としてタイを訪れた。アメリカがないがしろにしてきたと非難される東南アジア、ASEANの主軸国への最後の最後の訪問は、明らかに次期政権の対アジア・シフトにつながるものだと思われる。

アジア外交を総括したブッシュ大統領のタイでのスピーチ。http://www.whitehouse.gov/news/releases/2008/08/20080807-8.html

スピーチの中盤にこんなやりとりが。

"I've also worked to develop strong personal relationships with our allies' elected leaders. Who could ever forget the trip to Elvis's place with Prime Minister Koizumi? (Laughter.) I certainly will never forget it. (Laughter.) I don't think a lot of people in Memphis, Tennessee will ever forget it either."

こんな一節を単純にほほえましく思ってしまう僕です。もちろん、敵も多く作ったし、いくつかの外交政策は完全なmessだったけど、愛嬌はピカ一だったブッシュ氏。彼の任期も残り4か月。僕も卒業まで残り5か月くらい。お互い最後までがんばりましょうw。

Georgewbush

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オリンピックから

このブログが沈黙を続けても、当然のごとく世界は回っていますw。この秋中国に行く身だというのに、北京オリンピックに一度もふれないまま、オリンピックは閉幕。僕は、朝ソフトボールの金メダルの報道を見たときと、深夜BSでイシンバエワが自己の持つ世界記録に挑戦し3度目のジャンプを見事成功させたのを見たときの計2回泣きそうになりました。ここ数年、僕は誰かの努力みたいなものが見える瞬間にどんどん弱くなっている気がします。年をとるにしたがって、一つのものに向かって何年も何十年も努力し続けること、そして想像もできないプレッシャーの中で、やらなければならないその瞬間に何かをやってのけてしまうこと、目標を成し遂げてしまうことのすごさをより強く感じるのかもしれません。

実際のところ、北京オリンピックの開催国としての中国については、”オバマ疲れ”ならぬ、中国疲れしてしまうくらい報道がなされている気がするのでちょっと気が引けてしまいますが、個人的に面白い点としては、中国と並んで著しい経済発展を遂げているとされていて、同じく人口10億を超える大国インドが射撃の金メダル1つだったという点かな。もちろん単純に比較するのは無理だけど、中国がどれだけメダル獲得に資源を投入しているかを考える材料にはなる。冷戦時代のソ連がそうであったように、やっぱりメダル争いとなると統制された国家というのはとても強い。この辺についてThe Economistの記事が面白かった。

"All that gold does not glitter"

http://www.economist.com/world/asia/displaystory.cfm?story_id=11985394

中でも興味深いのは、党の影響力が非常に強いと言われる新華社通信が、中国のエリート・アスリートのためのスポーツ施設への投資について公然と批判をしているということ。新華社はこれらの政府支出を、 “waste of the state’s precious financial resources” あるいは “extremely unfair” to the publicなどと形容しているらしい。記事によれば、新華社は現存の”スポーツ庁”のような政府機関を廃止して、プロ・アスリートへの援助を打ち切ること、そしてそのお金を一般の学校や大学におけるスポーツ振興に用いることを主張している。党にコントロールされているとされるメディアからこのような批判がなされるのはなぜかっていろいろ勘ぐってしまうけれども、いずれにせよ世界の大国として強まった自負の表明、あるいは自信の表れであることには間違いないと思う。

あと、昨日のNY Timesの社説で、取材のために北京に滞在していたThomas Friedmanの記事が気になった。

A Biblical Seven Years

http://www.nytimes.com/2008/08/27/opinion/27friedman.html?_r=1&oref=slogin

「子供には中国語を教えろ」などという冗談めいたセリフではじまるこのコラムでは、2001年夏、オリンピック開催を決め準備に動き出した中国と、その秋9.11のテロから戦争に従事しはじめたアメリカのこの7年が対比的に描かれている。この7年、中国はインフラをこれだけ整えたのに、アメリカは戦車や爆弾にお金を注ぎ込んできた。provocativeすぎるきらいはあるけど、それなら日本のこの7年はどうだったのだろうと考えてしまう。中国のオリンピックについては、工事現場を大きな看板で隠す、開会式のクライマックスは口パク、花火はCGとか、少数民族の子は漢民族の子だとか、”表面性”みたいなものに対していろんな批判が飛び交った。だけど、日本人はここ7年、日本の政治に経済にCGの花火以上にドラマティックな、あるいは本質的な変化を見たのか。オリンピック関連でどんな小細工があったとしても、この7年、中国が激しく変化したことには違いない。

“Holy mackerel, the energy coming out of this country is unrivaled.”

“We are so cooked. Start teaching your kids Mandarin.” 

冗談めいたようなFriedmanのこの言葉は、僕にとってはものすごくリアルである。

オリンピックでは、韓国勢の活躍も目を見張るものがあった。日経ビジネスにはこんな記事が。

「星野ジャパン」と姿重なる“ドコモ・ジャパン”

http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20080825/168781/

記事によれば9戦全勝で金メダルを獲得した韓国野球界は、この1年、北京五輪での金メダルを目指し、国内リーグで国際公認球を用い、国際採用されたストライクゾーンを導入し、準備を進めてきたらしい。それが、携帯電話の国際市場におけるサムソン、LGなど韓国勢の大成功と、日本メーカーの海外進出失敗の構図に重なるという話。でも、詳細は割愛。

とにかく、こうして世界は動いている。中国だけじゃないのだ。

僕はこの前朝日新聞のとある記事を読むまで、2007年の時点でシンガポールの一人当たりGDPが日本を抜いていたことを知らなかった。つまり昨年、アジアでもっとも豊かな国はこの国ではなく、シンガポールとなった。その記事では、10年くらいのうちに日本が韓国に追いつかれる可能性も示唆されていた。

オリンピックにかこつけて、日本の危機感をあおろうとする自分はナショナリスティックなのだろうか。一昨日の夜は、最近売れているというアラジンの「陽はまた昇る」という曲を聴いて、日本はこれだけ開き直らなきゃいけないくらいやばいのかと思ったりもしたけど。

帰国の日からほとんど毎日振り続ける雨が、僕を少しだけ内省的にしていることは間違いないです。欲しいのはやっぱり太陽です。陽よ、また昇れ!

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休息と・・・

日本に帰って来て早1週間が過ぎました。アメリカから持ち帰ったたくさんの本が部屋に置ききれなかったので、部屋を思い切って整理したり、中国大使館にビザの申請に行ったり、クレジットカード会社に問い合わせたり、こまごまとしたことに追われて毎日があっというまでした。週末の二日間は大学時代の友人たちと山梨県でキャンプをしてきました。一方で、1週間経っても相変わらず日本の食べ物は新鮮でおいしくて、僕の食欲はとどまるところを知りません。

ようやく、重い腰を持ち上げつつ中国語の勉強も再開。僕は大学では第二外国語として中国語を勉強していたのですが、いかんせん中国語の辞書も購入せずにその場しのぎ的に授業を乗り切っていた不真面目な学生だったこともあり、基礎の基礎からの復習です。やってみてようやく自分のレベルの低さを肌で感じたけど、この焦りをばねに頑張ろうと考えて、わりと前向きな気分でいます。

それに加えて、おそらく就職活動のための準備も今のうちにできる限りやっておくべきなんじゃないかと考え始めました。

というわけで、帰国前後の喧騒から抜け出してようやく自分の状況とやらなきゃいけないことが見えつつあります。

更新が滞っておりますが、日本でのわずかな期間を充実したものにするためにも日々アンテナを伸ばしつつ、何か書いていきたいです。でも、ひとまず今日はこの辺で。

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Hopefully, on the road⑪

San Franciscoで旅の終わり

8月10日朝5:40。やってきた黒人職員に起こされる。「バスはもう動きだしますよ!起きてください!」床に寝ていたのは僕も含めて3人。よろよろと起きてひとまずいすでもう一度寝ようと試みたけど、急にせわしなくなってきたバスディポの固い椅子では寝れそうにもなかった。寝た時間は短かったけど、少し元気になった気がしたので外に出て歩き出す。7-elevenでフレンチヴァニラカフェを買って、大学院の自販で売ってたものの数倍の甘さにひるみながらSan Franciscoのノースショアに向けて坂を登り始めた。

Cimg1408 そのころには、次第に空が白み始めた。寒かったのでシャツ3枚の上にパーカーを着なおした。睡眠時間のわりに足は軽かった。Union Squareからトロリーが走る線路をたどっCimg1412 ていったのだが、そこには深夜歩いたSOMAで見た危険な夜の街とは全く別のSan Franciscoの顔があった。

丘の頂上まで登った所にあった公園では、数人の旅行者にもカメラマンにも見える人たちが写真を撮っていた。そこで撮ったのが右の写真だけど、なんだか数年前に住んでた目白のアパートの近くの公園を思い出した。そこからは新宿のビルが一望できたのだけど、いつか眠らなかった夜、明け方にその公園を訪れたことがあった。そういえば、あそこにも路面電車が走っていたなぁ。

Cimg1417 ロシア人地区にある有名な葛折りの坂道を過ぎて、フィッシャーマンズワーフに向かう。まだ朝6時すぎとあって散歩をしている人たちがちらほらいるくらいだった。そのまま、ノースショアの海岸を西へ歩いた。Cimg1431 朝のゴールデンゲートブリッジを見るためだ。

実際、Greyhoundのバスディポから、ゴールデンゲートブリッジを間近に見ることができる海岸まではかなりの距離である。でもバックパックをたびたび降ろして休憩しつつ、朝の海岸をゆっくり散策していくのは心地よかった。かもめの声や波の音がやさしく、サンフランシスコ湾は予想以上に澄んでいた。

Cimg1460ゴールデンゲートブリッジにはやっぱり靄がかかっていた。少なくともこの時期はいつもそうらしくて、できれば朝の早い時間に行くようにとリョウに言われていたのだが、やっぱり全体は見えなかった。でも、この海岸はとても気持ち良かったので30分くらい海や散歩する人、ジョギングする人を眺めてた。

Cimg1462 それからおそらく3時間ほど、ずっとノースショアの近辺の住宅街を歩きまわっていた。この街、ほんとうにきれいだ。たぶんヨーロッパとかでもSan Franciscoの北側ほど風情をもつ素敵な街を見つけるのはなかなか難しいんじゃないかな。朝飯も食わずにバックパックを背負ったままずっと歩けたのは、この街の日曜の朝のすがすがしさの賜物だと思う。ジャケットを着ていたり、マフラーをしている人もたくさんいて、夏の終わり、そして秋の訪れを予感。

フィッシャーマンズワーフに戻ったときには、観光客がたくさん集まってきていて、朝とは比べ物にならないほどの混雑。ひとまず非常におなかが減っていたので、屋台でカニを食べた。ケチャップとレモンがついてきた。ケチャップにアメリカらしさを感じる。カニは日本のものより塩気が少なくて、そして後で気づいたけど睡眠不足で僕の味覚が減退していたこともあり、日本のものより物足りなく感じた。そして昼食もシーフード。Cimg1468 海からパワーをもらうためだ。フィッシャーマンズワーフのイタリアンレストランで食べたこのパスタは恐ろしく美味かった。カニ、ムール貝、ソードフィッシュ、海老、ホタテetc.とにかく盛りだくさんで、この旅で食ったものの中で最高額を更新。でも僕はこんな豪華なものを食べているときにようやく自分の異変に気づいた。どうしても全部食べられないのだ。

それでも午後も観光を続けようと思い、海岸通りをダウンタウンのMarket Streetへ向けて歩いているときに公園を見つけた。少し疲れている気がしたので、芝生に腰をおろしているとそのまま睡眠に突入。日影が寒くなったので、日向の芝生に移動してさらに爆睡。気がついたら時計は午後4時になっていた。

スターバックスで眠気覚ましにカフェラテを飲んだころには体力はかなり回復。そして、なにしろ時間がない。僕は今夜深夜のフライトで、翌日の朝までにワシントンDCに戻る手筈になっているのだ。まだインターンが終わったわけではないのだ。そして意を決した17:30、最終目的地に行くため、ダウンタウンからバスに乗る。行き先はOcean Beachである。

市の西側に向かうバスには、アジア人が本当に多かった。運転手もそうだし、乗客の半分以上がアジア系。バスが進むにつれてその意味が分かった。西側の地域には、中国、韓国、そして日本の料理店がずらりとならんでいて、アジア人街のようなものが作られていた。西海岸の半島に位置するこの街。その西側に街を作ったのは、単純に彼らがアメリカにやってきたときの自然の成り行きなのだろうか、あるいは自らのルーツ、本国のある方向に本能的に身を寄せているのだろうか。バスで話しかけてきた白人のおっさんの話によると、彼の通っている教会にも日本人が二人ほどいるとのこと。彼自身、近辺の日本料理屋の常連客らしい。彼は空港までの行き方、ダウンタウンへの戻り方などもとても親切に教えてくれた。

バスに揺られること30分。やっぱりSan Franciscoは地図から想像するよりよっぽど大きいことを確認したところで、終点に到着。目の前は、大平洋だ!

Cimg1473 Cimg1483 時間は18:30くらいだったと思う。波は荒く、日はかなり傾いていた。延々と続いている砂浜で遊ぶ人たち、犬の散歩をしている人たち、ジョギングしている人たち。馬も走っていた。僕が目指していたのは、大陸の横断。大西洋側に位置するワシントンDCから、とにかく、このでかい国の反対側まで行ってはじっこを見ることだった。

防波堤から波打ち際までのおよそ100m。僕はほとんどプチ猿岩石状態。感動のあまり少し足ががくがくした。出発からわずか10日間。これだけ短い旅行で、これだけ一人で盛り上がれる旅行者は他にいまい。それでも移動した距離は数千キロ。タッチした海は少し冷たかった。

それからしばらく防波堤から海を見た。二隻の巨大な貨物船が夕陽の向こうに消えていった。向かう先はだいたい予想がつく。母国の日本、そしてこの秋訪れるもう一つの大国・中国だ!

―終わり―

PS.

そして僕は中華街でチャーハンとワンタンスープを10分ほどでたいらげた後、OAKから遅延した深夜1時の便でワシントンDCに飛んだ。帰りはおよそ4時間半。仮眠を取るには短すぎるくらい短いフライト。深夜にも関わらず、それを待つ人たちの行儀のよさに感心。そして帰ったマイホームは残ったジーチョンによって見違えるほどに汚されており、僕自身の身体と部屋の掃除のため朝10時からの仕事にもれなく遅刻した。インターン最後の5日間はとても眠くてあっという間だったけど、その間にコンビニとデリの見知らぬ店員たちから、「Are you from Thailand?」と突然尋ねられたことによって僕がいかに日焼けしたか、日焼けしやすいか、あるいはもともと東南アジア系なのかを考えさせられました。こんなことなら、次の旅行はいっそのことタイへゴーゴーしたいです。

そしてあと3時間後、日本へ発つ飛行機に乗るためにアパートを出る。この日を待ち望んでいたはずなのに、ほんとに寂しい気持ちになったことに自分でも驚いた。人は意識するせざるにかかわらず、自らの周囲のものを愛するようにできているのだと思う。移動が多いという意味では僕の大学院のプログラムはちょっとした旅だし、抽象的にはやっぱり誰の人生も旅に例えられると思う。いつか必ず、最終的には死によって、離れることが分かっているのに、いつも好きになる努力をし続け、好きになっては離れ続ける。モノとも、街とも、人とも。もともとアフリカで過ごすつもりでいたけど失敗し、セカンドチョイスだったワシントンDCでの夏。最高だったとは思わないけど、そのせいでこの国をもっと好きになってしまったことだけは間違いない。明日から3週間ほど日本をまた好きになった後で、9月半ばに北京に行きます。

Love, "Alone again or"

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Hopefully, on the road⑩

カリフォルニアで夜明けまで

Los Angeles行きのバスは、ひとまず僕が一度通過したPhoenixヘ向かった。そこでの乗り継ぎはまたもうまくいかず、深夜3時から1時間ちょっとの待ち。乗車後に眠りについたものの、このバス自体もなかなか目的地に着かない。目が覚めたのはカリフォルニアの砂漠のオアシスの街、Indio。次の停車地はエキゾチックで美しい小都市Riverside。次はついにロスかと思うと、また別のバスディポで小休止。そのたびにジャンボサイズの運転手が決して機敏とは言えない動作で、荷物をいじったり、発車後もバスのマイクを使っていろんなことをしゃべり続ける。「次のバスディポでは、入って右側に▽▽、そこから左手に□□、法律で許されている喫煙場所は、▼▼の区域だけになっています。ところで○○というニュースを先ほど小耳にはさみました。これは重大です。次のバスディポでぜひチェックしてみましょう。」という具合。最後には、お客の一人が皮肉をこめた拍手まで送った。バスは8月9日13:00過ぎに、Los Angelesのバス・ターミナルに到着した。

僕がこのバスの到着時間についてとても気をもんでいたのは、最終目的地San Franciscoの格安ホテルのシングルルームを予約済みだったからである。しかしここまでですでにバスはスケジュールより3時間ほど遅れていて、ホテルが営業中に辿りつけるのかどうか怪しいところだった。それに追い打ちをかけるかのようにLos Angeles13:15発のバスは満席のため次に乗るようにと多くの人が冷やかに乗車を拒否され、僕もその一人になった。

次のバスは15:30。San Franciscoまでは7~9時間かかるので、つくのはどうしても深夜になる。ここで僕は二つのミスを犯した。まず携帯の電池がなくなっていたので、携帯でホテルに電話を入れることができなかったこと。このたびでさんざん悩まされてきた頭痛が再発して、公衆電話で連絡を入れることすらやめてしまったこと。これが落とし穴への伏線になった。

バスは定時の15:30よりさらに1時間遅れてLos Angelesを出発。乗客はこれまで多かった黒人がとても少なくなり、大部分はラティーノだった。Los Angeles―San Franciscoという西海岸の大都市間の路線ともあって、白人もかなり乗車していたし、ヒッピー風の日本人らしき人も乗っていた。バスは20時ごろ、CA Junctionというまたもや荒野の真っただ中にあるBurger Kingに停まった。バスの待ち時間に昼もハンバーガーを食べたけど、他に選択肢がなかったので仕方なくまたハンバーガーを食べる。胃の調子もかなり悪くなっている。

ここである青年が話しかけてきた。白い肌に黒髪の長髪ということもあって、そのまま声と服装だけ女性にしたら、ほんとに女性になってしまうような見たことのないタイプの美青年だった。彼はAlbuquerqueからバスに乗っており、2年間音信不通だった友人に連絡がとれたために会いに行くのだと言った。インダストリアル系のプロミュージシャンらしく、「音楽やってるの?」と尋ねてきた。僕は大学のときにやってたけど、もうやってないと答えた。彼は1stアルバムを出したばかりとかでSan Franciscoでも演奏をやるようだった。ここでもそうだったけど、彼はてきとうにその辺の女性に取り入って、すべての飯をおごってもらっていた。「San Franciscoは初めてだって?間違いなく好きになるさ。」その言葉とともに、彼は奇妙に鮮烈な印象を残した。

8月10日午前1時前。眠りから覚めた僕の目の前には、初めてNYCを見た時のように感動的なSan Franciscoの夜景が見えた。バスを降り、夜の街を南に向けて歩き出す。

リョウにもらった簡単な地図から想像するより、街は意外に大きくホテルは予想以上に遠かった。それに、僕が歩いているSOMA地区はかなり治安の悪い場所であるとのことだった。1時間ほど歩きようやく見つけたさびれたホテルの扉は固くロックされており、予想に反してインターホンすら設置されていなかった。深夜2時、酔っ払いと浮浪者がたむろす街で、宿なしであることが発覚した。

止まったらまずいことになりそうだと予感した僕は、夜も比較的安全だと言われているメインストリートのMarket streetを見つけ、元来た道を戻りながら考えることにした。途中見つけたポルノ映画館で朝まで過ごそうかとも考えた。でも、ホモとかたちの悪い客がこわすぎたのでやめた。明かりがついていたHoliday Innのフロントで空き部屋がないか聞いてみようかとも思ったけど、ここまで来て一泊に100ドル以上を使うのは馬鹿らしい気もした。San Franciscoはこれまで回ってきた土地に比べて圧倒的に寒くて、野宿できそうな雰囲気もなかった。そんな中でも、開店しているバーやカフェで朝まで過ごすことが考えられなかったことが今では不思議である。

ぼろぼろの状態で2時間以上前に到着したバスディポまで戻ってきてしまった。2時間、それが途方もなく長く感じた。それでも、インフォメーション・デスクには人はおらず、待合室の扉もロックされていた。万事休すか、そう思ったところで中にいた女性から合図が。どうやら別に待合室に入れる入口があるらしい。バス到着口の側にある金属の扉には鍵がかかっておらず、彼女の導きで無事入室させてもらうことができた。彼女自身、朝までバスを待っている乗客で、そこには職員は一人もいなかった。とにかく、僕にとっては彼女は本当の女神だった。待合室には10人くらいの人がいたけど、ほぼ全員が寝ていた。つまり、見るからにとても安全そうな寝場所だった。

無音のまま流れているCNNのチベット特集をながめながら、フードをかぶる。椅子は固く、ライトがとても眩しいので、かげになっている通路で横になることに。床は冷たく、空気も本当に寒かった。なんせ外ではダウンジャケットを着ている人まで見たくらいだから。

でも寝場所を確保した安心感は大きかった。時計は朝4時近く。深く、どろんとした眠り。夢もみなかった。

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Hopefully, on the road⑨

Grand Canyonと別れ

8月8日。予定が一日ずれこんだけど、これだけは押さえておかなきゃ帰れないということで、Grand Canyon行きのツアーにも参加することになった。朝7時に起きて、二日間寝食を共にしたブライアンともお別れ。PhoenixからFlag Staffまで自転車で旅してきた彼も、今日から二日かけてGrand Canyonに向かい、そこでキャンプをするとのこと。そのあとは分からない。日本は安全で自転車での旅がしやすいこと、ベジタリアンの彼に合う料理もたくさんあることを告げ、ぜひ訪れるようにと伝えた。朝食後、イスマとも会った。彼は今日から車を借りてシカゴまで行く。ひとまずはコロラドでバンジージャンプするとか。もともとお金はすべて使うつもりできたし、これから最高の一か月を送ると言っていた。腐りそうだからスペインには帰りたくない、自分がいなかった場所にいるからこそ成長できると言っていた。彼こそ、本当に先には一切確定要素がなかった。彼のそんなスタンスにはかなり感銘を受けたし、僕もそんな旅を一度はしたいと思いつつ、無事を願った。

朝9時、リョウと一緒に集合すると、昨日のSedonaツアーにも参加したおなじみの面々。ツアコンも当然マイケルである。雲が多い空の具合を心配しつつ1時間半ほど車に揺られ、Cimg1358 Cimg1378 サウスリムへ到着したそのときにはちゃんと太陽が輝いていた。Grand Canyonについて今更語るのは気が引けるけど、視界がなんだかGoogle earthにでもなったみたいだった。白、赤の崖と、木が生えたなだらかな部分が本当に幾層にも折り重なっている。人類の歴史などはるかに及ばない長い年月をかけて、この地が深い海、浅い海、沼という風に何度も環境を変えてきたことの証。いつか、コロラド川がこの豊かな起伏をならして、一面をなだらかな盆地に変えるだろうとのこと。一番下にある黒い層は最も古い層で、そこからは脊椎のある生物の化石はとれない。グランドキャニオン最上の地層も古すぎるために恐竜の化石などは出土しないそうだ。

Grand Canyonの周囲にあるビュースポットのいくつかを周りつつ、極めつけは2時間のハイキング。ラバの糞でいっぱいの道をくだり、汗をかきつつ今度は登る。 Cimg1384途中レンジャーによって道が封鎖され、20分ほど立ち往生した。19歳の少年が近辺の崖から落ちて亡くなったらしかった。封鎖は夕立ちの到来とともに解かれて、ずぶぬれになりながら最後は坂道を駆け上がってバンに飛び込んだ。その雨のあとには、虹が見えた。Cimg1393

Sedona, Grand Canyonと二日続けてハイキングをした僕たちは、とても疲れており、帰りの車は本当に静かだった。ツアコンのマイケルですら疲れている様子だったけど、さすが名ツアコンだけあって、その雰囲気に合わせるかのようなレイドバックした選曲を展開。アリゾナの砂漠や、草原をかける馬をながめながら聞くPavementやAcross the universeはなんだかすごかった。

ホステルに帰りついたのは19時過ぎ。シャワーを使わせてもらって身支度を済ませ、リョウとともにまたタイレストランへ行き、またトムヤムクンを食べた。やっぱりうまい。その後もう一度ホステルに戻って、ソンと同じく韓国人の店員の男の子からラップトップを借りてバスのスケジュールをチェックした。最後までキャラクターはつかめなかったけど、最後まで親切な彼らだった。

夜22時前、Greyhoundのバスディポに行くと、そこにはツアーに参加した面々がそろっていた。ScotlandのイアンらはLas Vegasヘ。フランス人の彼もLas Vegas経由でソルトレイクシティーを目指すとのこと。僕もLas Vegasへは行くつもりでいたのだが、Flag StaffからVegas行きのバスに乗るのは非常に難しく、数日前からの予約制となっているために待っていても乗れない可能性があるとのことだった。流れでSedonaツアーに参加したハプニングもあったし、ここで僕はVegasを潔く諦めて、Los Angeles行きのバスに乗ることに。

ここで三日間行動を共にしたリョウともお別れ。彼はひとまずNew MexicoのAlbuquerqueまで行き、そのまま南部経由で東海岸のNYC, Boston,さらにはそこからChicago経由で西へ戻るとのことだった。彼とは自分の思うことをとりとめもなく自由にしゃべっていた気がする。そういうのはたぶんかなり久しぶりだったし、楽しかった。ほんとに無事と成功を願う。

Flagstaffでは本当にたくさんの出会いがあり、3日間過ごしたこともあって後ろ髪をひかれる思いだった。この小さくて静かでなんとなく不思議な街で、僕は最高に一人旅ならではの喜びをかみしめたと言っても過言ではない。世の中、ほんとに尊敬すべき馬鹿ばっかりだ。

バスは1時間ほど遅れて、8月9日0時過ぎ、Flagstaffを後にした。

Pavement, "Secret Knowledge Of Backroads"

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Hopefully, on the road⑧

Sedonaの赤に包まれて

Cimg1352 Cimg1350 8月7日朝7:00。携帯は電池切れでアラームも使えなかったのだが、自然と目が覚めた。外は快晴。今日はホステルが運営するツアーでGrand Canyonに行く予定。無料でふるまわれる朝飯のパンとりんごを食べつつコーヒーを飲んでから、集合時間の9時まで散歩しつつ、ホステルの周りの写真を撮っていた。

8時40分集合場所のフロントデスクに行くと、そこにいたリョウからニュースが。「Grandcanyonのツアーって明日だって。俺たちが名前記入した名簿の日付見たらやっぱり8月8日だったよ。」とのこと。さらには、「もうホステルのツアー以外のGrandcanyon行きのバスも出発しちゃってる時間だよね。」って。

なにー!!

その代り、本日はSedona行きのツアーがあるということで、ひとまずそっちになんとか参加させてもらおうという結論に至る。それについてはすんなりOK。予定は変更を余儀なくされたけど、Sedonaはなんとかして訪れたい場所のひとつだったので、すんなり気持ちも盛り上がる。

バスに乗り込むとき、いきなり「おはようございます」と話しかけられた。Scotlandから来たイアンである。彼は東工大に3か月ほど短期留学していたらしく、それなりに日本通。グラスゴー出身ということで、僕もUKミュージックの知識で対抗しようとグラスゴーのバンドの名前をあげようとしたけど、一つも挙げることができなかった。それでも、音楽は本気で話題になるので良い。僕はそもそも彼がScotland人であると最初からidentifyしてきたことに興味を持った。今スコットランドの独立への気運の高まりが新聞でささやかれているところだし。「独立すべきであると思う?」って聞いたら、「そこにいる彼女はEngland出身だからここでは言えないよ。いずれにせよ、スコットランドはベストさ。」とのことだった。同行者は他にも、いかにもイタリアンで陽気なルカ、スペインから来たこれまた陽気なイスマ、フランス人の名前は聞かなかったけど皮肉の利いたジョークが面白い彼、イングランドから来たどことなくYou似のかわいい娘、子供がかなり腕白なアメリカ人の親子、それに僕とRyo以外に、一眼レフをクールにたずさえる日本人大学生二人もいて、かなり充実したメンバーである。

イアンやリョウとの話で盛り上がっているといつのまにか最初のビュースポットについた。このとき、問題発生。朝ホステルの周囲を撮影していたはずのデジタルカメラがない。どこにもない。ホステルのツアコンのマイケルにお願いして問い合わせてもらったけど、なかなか電話にでないらしく不安が募る。

しかし、気を取り直して最初のハイキングを開始。今まで見たことのない赤い土。サボテンそびえたつ美しい赤色の岩山たち。マイケルのガイドも冴えわたり、テンションが徐々に上昇。長年の浸食のおかげで橋のような形になっている岩までたどりついたときには、気分はウキウキになっていた。

次は、川のほとりでお昼御飯を食べながら、水遊びをすることに。ここに行く途中で、僕のカメラがフロントデスクにて発見されたという報告があり、僕の盛り上がりは最高潮へ。僕とリョウは出発の15分前に参加を決定したので、他の人たちと違って水着は持ってきていなかったのだが、どうでもいいということになりズボンをまくりあげてそのまま川の溜まりにダイブ。飛び込みなんて久々にやったけど、本気で気持ち良かった。気持ちよすぎたので、何度も飛び込んだ。

それから、川辺から見えた先端がフォークみたいな形状になっている岩山へハイキングした。急な道ともいえぬ道をときに岩をつかむようにして上っていくと、約30分ほどで頂上へ。そこからはSedonaに点在するいろんな形の赤い岩山がきれいに見渡せた。このときの本当に晴れやかな気持ちはなかなか形容しがたい。僕は小さいころから親に連れられて多くの山を登ったけど、岩山をよじ上ったこともなければ、こんな色の景色は見たことがなかった。濡れていたズボンも2時間で乾かしてしまうような乾いた風と強い光の中で、僕はほんとに解放されてる気がした。Sedonaは世界に名を馳せるヒーリング・スポットであるとのことだけど、この鮮やかな自然のあり様それこそが、癒しの力なのではないかと思った。本当に最高だった。

ホステルに戻ってからは、同室のブライアンとリョウと一緒に近くのレストランにタイ料理を食べに行った。ハイキングと水遊びでほどよく疲れた体に、トムヤムクンの少し酸っぱいスープとぷりぷりしたエビが格別。

そのあと、Sedonaツアーの参加者であるスペイン人のイスマも合流して、4人でビールを飲んだ。イスマはアメリカに来る前の2年間、イギリスでバーテンをやって金を貯めながら英語を学んだらしい。「イギリスに行ったとき最初は英語の一言も出てこなかった。周囲のアジア人は自分よりよっぽど苦労していたけどさ。ヨーロッパでも南の方はダメなのさ。フランス、スペイン、イタリア。みんな英語がだめな国ばかりさ。」とのこと。彼のくだけた英語はパーフェクトで、もともと陽気なのであろう彼にとてもにあっていた。話題は、サッカー、なぜドイツ人は全員英語がうまいのか、スペインのトマトや水をかけまくる祭りについてなど。途中、音楽好きブライアンがイビザについて尋ねた。イスマいわく、「イビザは本気で狂ってる。俺はもう行きたくないよ。こわいくらいだ。行くなら週末1回だけにしておきな。そうでなければ戻れなくなる。」とのこと。これには、逆にイビザに対する興味を増長させられた。

その日、僕は最高に良い気分で眠りについた。観た夢は忘れもしない僕の人生で1、2を争う悪夢だったけど。なぜ、こんな日に・・・。

この日の写真はすべてリョウことりょうすけくんにお願いしたので、彼がアメリカ周遊から帰る1か月後くらいにはアップしたいです。この場を借りて、どうもありがとう。

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Hopefully, on the road⑦

長いバス、そしてFlagstaffへ

8月5日2:00pm過ぎ。トラヴィス・パークでまったりしたあと、バスディポに直行。チケットを購入した際に夜のバスを指定されてしまったものの、早めに列にならんだことによって3:30pm発のEl Paso行きのバスに乗ることができた。Greyhoundのバスはそもそも大幅に遅れることも多いし、時間の表示はあまり関係がないようだ。つまり3:30pmのバスには6:15amでも8:30pmのチケットでも乗れてしまう。ひとまずゲートの前にどれだけ早く行って並んでいられるかが勝負のよう。

滞在時間7時間。San Antonioを後にする。ここからのバスは本当に長い。WashingtonからAtlanta, AtlantaからNew Orleans, New OrleansからSan Antonioのバスは乗り換え込みで12時間から15時間くらいだった。これから向かう先は、アリゾナ州のFlagstaff。24時間かかることが見込まれている。

国境の街、El Pasoまでの11時間。バスはずっとTexasの荒野の中を走る。人家は一切見えないような山の稜線と地平線だけの景色が続く。途中休憩のため寄った荒野のまっただ中のデリの便所は、僕がこれまで入った数々の便所の中でも、もっとも陰気な便所であった。Tom Waitsに詩でも書かせたいくらい。昔、村上龍あたりが、アメリカの田舎は世界最高の田舎であるみたいなことを書いてた気がするけど、そう書きたくなる気持ちもわかる。東部から回ってきた僕にとっては、そのくらい壮絶な土地であった。

途中から隣に座ってきたメリッツァと話した。彼女のお母さんはメキシコ人。彼女自身はアメリカで生まれ育ったけど、お母さんからスペイン語を教わり、現在は英語とスペイン語の通訳をしている。彼女の飼っているオウムも英語とスペイン語で話すとか。バスの中で例外的に気品を放っていた彼女は、周囲のラティーノ、アメリカ人たがわず気を配ってよく話しかけていた。前日に旅行に行くことを決め、飛行機のチケットが非常に高かった関係でバスを選んだという彼女はこっそりと「もう一生こんなバスには乗らないわ」と言っていた。僕が日本語で書かれたルポルタージュを読んでいると、彼女は興味しんしん。彼女は僕に、「将来子供が生まれたら、子供には日本語を教えるの?」と聞いてきた。彼女にとっては、この奇妙な言語、世界のはじっこの小さな島国でしか使われていない不思議な言葉を子供に教えるのは単なるオプションであるように思えたのだろうか。彼女は言う。「この小さなバスの中もとても面白いわ。あの二人は男性が白人、女性が黒人でご夫婦らしいわ。赤ちゃんはハーフね。あそこにはインドから来た人も乗っている。私はメキシコ人とアメリカの白人とのハーフ。たくさんのラティーノ。黒人。そしてあなたは日本人。ここは本当に”るつぼ”なのよ。」と。そんな彼女は、人種的カテゴリーを越えてコミュニケーションできる2大言語というスキルと共に、オープンなマインドを育んできた人なんだなと思った。でも彼女のような育ち方ができる環境は、はたして日本で与えられるのだろうか。

日がかなり傾いたころ、地平線に少しずつ人工物が見え始めた。風力発電のための風車だった。巨大な風車が地平線の上に、まさに一直線に果てしなく並んでいた。僕の貧しい想像力は、ナウシカの巨神兵を想起させた。これが未来の風景なのかって想像するのは、たぶん前時代的に過ぎるのだろう。風車はよく、景観を美的に損ねることが反対の理由に挙げられる。でもこれだけ立ち並んだ景色は本当に圧倒的で、きれいだとさえ思った。しばらくして夕日が地平線に沈んだ。卵の黄身がくずれていくみたいだった。僕はほんとの地平線に太陽が沈むところをこれまで見たことがあっただろうか。

深夜2時前。うたた寝から目を覚ますと、目の前には広大な街の明かり。El Pasoである。ここで次のバスは遅れ、2時間待って朝の4時にようやく乗車した。こんな時間の乗り換えだというのに、隣に座った黒人の少年はものすごくテンションが高く、 席についてからしばらくして突然「What's up! Bruce!」と話しかけてきた。僕がブルース・リーに似ているとからしい。これでブルース・リー呼ばわれされたのは、ワシントンDCの街中で黒人に後ろから声をかけられたことと併せて2回目である。彼は「気にしないでくれ。俺はただ嫉妬しているだけなんだ。だってきみは女の子からBruceとhang outしたいって言われて、誘われまくってるに決まっているからさ!」と早口でまくしたてていた。メキシコからの不法移民をチェックするための検問を通過するときはさすがに静かだったけど、朝7時にマクドナルドでバスが休憩したときも、彼はすべての食べ物と飲み物をこぼしながらしゃべりまくっていた。良いやつだったけど、あまりに疲れていた僕はほとんど何も答えられなかった。

Cimg1342_2朝10時くらいだろうか。アリゾナ州Tucsonにさしかかるあたりから、景色に少しずつ変化が。サボテンである。そしてEl Pasoから8時間、バスは灼熱の砂漠の街、Phoenixに到着。ここでさらなる乗り換えだけど、体力的にはほぼ限界。外に少し出たときに、あまりの暑さと同時に寒気を感じて、そこからまた頭痛に悩まされはじめた。卵サンドとビタミンウォーターで体力の補給をしつつ、またバスへ乗り込む。ここから3時間、二つ目のバスストップが、次の目的地Flag Staffである。

PhoenixからFlagstaffまでの景色も壮絶である。巨大なサボテンが丘にひしめきあうような荒々しい光景から、一面に広がる草原に変わり、僕が1時間ほどうたた寝したあとは太陽は隠れて針葉樹林になっていた。到着直前、真黒な雲に覆われた森に、雨が降り始めた。そして8月6日3:00pmすぎ。バスはようやく標高2300mの小さな街に着いた。Route66が中心をつらぬき、旅人達が集う静かな街である。

頭痛を癒すため、残っていたバファリン2錠をバス停で売っていたホット・チョコレートで飲み込んだ。楽になった。Phoenixの圧倒的に乾燥した空気からは打って変わって、雨は降り続き空気は冷たい。この旅ではじめて折りたたみ傘を開き、道行く人に尋ねながらホステルへ向かう。

宿泊先は旅人の間ではそれなりに有名らしいDe Beauモーテル。Amtrakの駅のすぐ裏にある。部屋では、Phoenixから自転車で上ってきたというブライアンと早速仲良くなり、近所のアイリッシュバーに一緒にサンドイッチを食べに行った。彼は音楽、特に電子音楽が好きでもともと音楽学校に通っていたのだがそれを辞め、今は大学で人類学を専攻しているという。将来は開発の仕事をしたいとか。かなり近いにおいを感じる。当然音楽の話に華が咲いたけど、「一番好きなバンドを特定することは難しい」、「好きなジャンルを特定するのすら難しい」というとても納得できる合意にたどり着いた。彼は僕がこのたびで訪れたかったけどスキップした宝石と呼ばれるほど美しい街、New MexicoのSanta Feの出身であり、僕が「サンタフェは日本でとても有名なんだ。なぜなら日本で最もきれいな女優が一昔前にサンタフェで撮ったヘアヌード写真を発売してセンセーションを巻き起こしたから。」という話に大ウケしていた。

夜は、同じくホステルで知り合った日本人大学生のRyoを交えてブライアンと3人でビールを飲んだ。Ryoは西海岸から回ってきたらしく、まだ1週間だというのに、かなり英語がしゃべれていたことにとても感心した。途中ホステルで働いている韓国人のソンも混ざってきた。彼女は韓国でアートを学んでいるけど、アメリカに旅行に来てどうやら今は一時的にホステルで働きつつ、近くの大学にも通っているらしかった。

ホステルにはビリヤード台とジュークボックスのあるかなりクールな部屋があり、そこでは酒宴が行われていた。ジュークボックスの曲のセレクトはかなりイカしていたし、ホステルの従業員はビリヤードがやたらうまかった。僕は圧倒的に疲れていたので12時くらいに退散したけど、どうやらパーティは少なくとも3時までは終わらなかったようだ。

こうして長い長い1日をベッドの上で終えた。そのことが心から幸せ。

Creedence Clearwater Revival, "Have you ever seen the rain?"

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Hopefully, on the road⑥

San Antonioでの恍惚

8月5日朝7:00。定刻よりもバスは少し遅れて次の目的地、Texas州の南端に位置するSan Antonioに到着。日本人にはあまりなじみのない街だけど、メキシコ側からの移民の急激な流入によって人口が増え今では全米5位とか。Chicagoあたりの首をとる日も近いのではないでしょうか。

2時間は眠れたけど身体は重い。バスディポのトイレで急激に日焼けしてきた顔を洗う。ほんとに真赤。ひとまず1時間ほど朝の市街地を歩いた。

Cimg1306 Cimg1309 San Antonioの名所と言えば、アラモ。メキシコからの侵攻をこの砦に籠城して防ぎ、圧倒的な少人数で相手を追い返したことが今のアメリカの形にもつながっている。英雄のひとり、Travis将軍は街にその名を冠した公園もあるし、通りの名前も英雄たちからとられているようだ。そしてもう一つが右側の写真リバーウォーク。ダウンタウンには水路が縦横に走り、両側が花壇やカフェなどによってとてもきれいに整備されている。アメリカ南部のヴェニスとか呼ばれているとか。水があればどこでもヴェニスと呼びたくなるほどヴェニスってすごいのかー、行ってみたいなーとも思うけど、実際San Antonioのリバーウォークも独特の趣があってかなり良い。アラモはバス停から近いし、街中には分かりやすい地図がたくさんある。リバーウォークはいろんなところを通っているので、地図なしのバス旅行者にとっては観光もかなり楽。

腹が減ったので、てきとうに歩いて見つけたリバーウォーク沿いのスターバックスへ。Cimg1339 Cimg1317 左はリバーウォーク側から見た外観。ものすごく溶け込んでいるし、作りが非常に凝っている。しかも音楽をfeatureしている店らしく、かなりの量のCDが店頭にある上に、一階には各席に音楽の試聴機が並べられている。バルコニーもとても気持ち良くて、ここでこの日記を1時間くらい書いた。たぶんこれまで訪れた中でベストなスターバックスです。

その後朝9時の会館を待ってアラモをさらっと見学したあと、San Antonioの街をリバーウォーク中心にぐるりと回ってみた。太陽はまさに全開。睡眠不足のおかげでバックパックが本当に重く感じる。そこでひとまず行きついた教会の広場にて休憩。まったり。

すると何やら広場の管理者らしき人たちが機材の設営を開始。ほんとに動きたくないしNew Orleansで街中で音楽を聴くことに味をしめたこともあり、1時間くらい設営の様子を見る。Cimg1327 そしてようやくはじまった音楽はラテンジャズ。らしい。キーボードとマラカス、そしてボーカルだけの編成でパワー不足な感じもしたけど、ボサノヴァみたいな曲が平日午前中の公園にかなり優しく響く。道行く人たちもなかなか気持ち良さそうだし、広場でやることがなさそうなおっさんたちがいきなりYeahとか反応し始めたのも良い。僕も最前線になってしまったのでYeahと返す。紹介によると、街の広場の活性化のために平日は毎日お昼の時間に演奏をするらしい。日本も演歌とか、できればゆずとかそういう方向性だけじゃなく、日常にさらっと寄り添うようなストリートミュージックがあれば、それだけで街がもっと輝くはずなのにと思った。

その後、メキシコ国境にほど近いことにちなんで、メキシカンのカフェに入る。選んだのはビーフのファヒータ。メキシコ料理は、おそらくアメリカで一番人気のある料理だし、基本的に外れはない。Cimg1329 たぶん日本でチェーン展開できるくらい簡単でフォーマットが整ってて味も安定させやすい料理なんじゃないかな。リバーウォーク沿いのオープンカフェなので、食べているとアヒルが。Cimg1328 僕は基本的には心がきれいなので、動物にとても好かれるのだ。道行く人からYou got a friend!とか言って冷やかされたけど。いずれにせよここの川のアヒルは人にとても慣れているので、一度マークされたら振り切ることはほぼ不可能。つついてくるのでくちばし嫌いの人とかは餌をあげたりしないでください。ちなみに、僕はあげました。マークはそのせいです。

Cimg1337 ごはんを食べた後は賑わってきたリバーウォークを散策しつつ、今朝訪れたスターバックスに戻った。実は朝からずっと気になっていたものがあったのだ。

それは、

The Traveling Wilburys, Vol. 1 Music The Traveling Wilburys, Vol. 1

アーティスト:The Traveling Wilburys
販売元:Rhino
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どうやら再発されていたようです。レジにてこれだけ持っていき、「コーヒーは要らないです。」と言ったら、なぜかレジの女の子にぷって笑われた。たしかに僕のこの行為につっこみどころはたくさんあると思います。

その後、完全に体力が尽きたため、トラヴィス・パークのベンチで1時間ほどまったりした。2時間の睡眠と強い太陽の組み合わせはとってもサイケデリックである。テキサスを過剰に意識していたこともあり、朝からずっと頭の中で彼らのトゥク、トゥクが止まりませんでした。Wilburys、関係なし。

13th Floor Elevators, "Thru the rhythm"

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Hopefully, on the road⑤

ルイジアナ、テキサスの夜

New Orleansを出てから2時間弱。Louisianaのこぎれいな都市、Baton Rougeにてバスは休憩。近くのガスステーションに買出しに行ってバスの席に着いたあとで、ちょっとしたドラマを見た。バスが出発するはずの21時。ほぼ全員が席に座っているように見えるが、動き出すそぶりはない。窓の外を見ると、ラティーノ4人組がいる。どうやらその中の一人がバスに乗るようだが、なかなか別れられずにいる様子。おそらくルックスからは友達同士だと思われる女性三人がhugし合い、その中の一人の夫だと思われる男性はそばでやるせなさそうに立っていた。そのうちに、女性二人が号泣。数十回とhugとキスを繰り返しても、友人の女性をどうしても行かせようとしない。

これがラテン版、女の友情なのだろうか。外でそばに立っていた黒人の男性職員までもがもらい泣きしているのか目をぬぐっていたのがなんとも微笑ましかった。最後に女性三人がバスの中まで上がってきて同じことを3回くらい繰り返したあとでバスは出発。おそらく20分くらい待っただろう。乗客はみんないかにも金のなさそうなマイノリティばかりだけど、野次の一つすら飛ばさなかったことにも感動した。同時に、今のご時世に今生の別れのような、あれほど劇的な別れがあるのかって思わされた。バスがTexusに向かっていることを考えると、おそらく女性は一人中米のどこかの国へ帰るのだろう。でもバスで向かえる場所ならば、その気になれば会える距離だ。それにインターネットだってある。でも、物理的に離れること、直接話をしたりhugしたりできないことはそれほど重要なことなんだろう。

ダイレクトな人間関係の良さみたいなものを考えさせられたし、正直ちょっとうらやましくもなった。僕はなんせ1年住んだアメリカを発つ前だと言うのに、日本食のことばかり考えていたから。おそらく昨晩よく寝たこともあって、それからいろいろなことをとめどなく考え続けてしまい眠れなくなった。

それから4時間。眠れないバスの中をずっと動き続ける影があった。さきほどとは別のラテン系の女性だった。彼女は通路をまたがって二人の子供を連れているので、せわしなくずっと様子を見てやっていた。次の休憩のときにようやく気がついたけど、彼女自身座ってすらいなかった。自分の座るべき座席の隣に赤ん坊を寝かせた籠を置いているので、この長時間ずっと中腰のような姿勢でいたことになる。彼女は英語もしゃべれないようで、他の人にしきりに頭を下げて邪魔にならないようにしていた。僕はこういう圧倒的な母性にめっぽうよわい。

僕はラテン系の女性に対して総じて良い印象を持っているけど、これらの件でさらに株が急上昇した。

Hustonでの乗り換えは深夜2時。スムーズだったけど、全く寝ていなかったので辛かった。ニュースではハリケーンが近づいていること、昼には間違いなく大雨に見舞われることが伝えられていた。そんな悪いニュース以上に悪いのがバス停の雰囲気。これまでも感じてきたけど、特に深夜の時間帯のバス停には経済大国アメリカの面影はゼロ。どういうわけか周囲に75セントをせがみ続ける黒人男性。Fワードで構成された一人言も止まらない。彼はまだしも、身体を何日も洗っていないと思われるラティーノの男性のにおいが辛い。さらには、こわいくらいにやせて顔までこわくなっている白人女性が骨が鳴ってるような音を立てながらきびきびと動き回る。外でタバコを吸えば、間違いなくせがまれる。

深夜3時。ようやく乗り換えのバスに乗れて、席がとっても広くなった。運転手はここからSpanish speakerに変わった。それからようやくしばしの睡眠。

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Hopefully, on the road④

New Orleansの平穏

8月4日。Louis Armstrongの誕生日。朝起きてシャワーを浴びているうちに同室の人はいなくなっていた。8人部屋なのに客は2人。彼は僕が眠りにつこうとしているくらいの時間に帰って来てHiと挨拶しただけで、結局顔も見ないまま別れてしまった。ホステルにはそれなりに交流を求めて泊まったのだけど、まあこんなものか。

Canal Streetにあるシェラトンのスターバックスで朝食代わりのケーキをいただきながらこの日記を書いた。このとき流れていたSupremesのYou can't hurry loveを聴いてやたらテンションあがったことを覚えている。それだけ気持ちが良い朝だった。

そのあと、実は昨日の朝も訪れたLouis Armstrong Parkに行ってみた。 また閉Cimg1246まっている。誕生日なのに。近くで奇声をあげていた黒人女性に聞いてみたところ「Satchimo Festivalだから閉まっているのよ。」とのこと。いや、サッチモは昨日終わって、僕は実際その祭に参加してたんだと言ったら、「でも、いつも閉まってるわけじゃないわ。ところであなた1ドル持ってないの?」という具合。つまり、いつも開いてるわけでもなければ、いつも閉まってるわけでもないということになる。それにしてもそんなに開けておくとマズイのだろうか、あの公園。たしかに周囲はやることがなさそうな黒人がぶらついたりしているけど、Atlantaのゲットーみたいなやばそうな雰囲気はない。それはおそらくこの街のゲットーが小さいとか比較的平和だとかそういうことじゃなくて、このフレンチクォーターから離れた別の場所にあるっていうことだろう。New Orleansのダウンタウンはそういう意味でかなり安全であるという印象を受けた。

Cimg1277 サッチモ像をあきらめ、てきとうにぶらぶらしたあと、昼飯を食いに昨日Time is on my sideを演奏していたフレンチマーケット近くのオープンカフェに入る。ここで注文する料理を迷っていたら、ザリガニのガンボを試食させてくれた。とても濃厚で、めちゃくちゃうまい。この街に訪れたらぜひ食べてみることをお勧めしたい。一方の僕は、せっかく味見をしたのだから別のものを食べようと思い、なぜか普通にジャンバラヤを注文。辛いけどうまかった。このカフェにはアリゲーターのフリッターとかもあるし、バンドもいいのでほんとにお勧めである。名前はチェックしなかったけど、Decator通り沿いで、広場が隣接しててお土産屋さんと並んでいるカフェなので、行ったら普通に見つかると思う。というかこの観光客向けっぽいスタイルだと、地球の歩き方とかには間違いなく載ってると思う。

その店の店員にLocalなMusic Storeがどこにあるのかを尋ね、New Orleans音楽でも記念に買おうと思いCD屋に向かう。その店員に教えてもらったところには古本屋しかなかったけど、また別の人に聞いて見つけた。Louisiana Music Factory。いかにも地元の音楽好きっぽいおっさんのコンビが経営している店である。一階はすべてNew OrleansもしくはLouisiana音楽に占拠されている。僕はここで計30枚のアルバムを試聴してみたのだけど、どうにもぴんと来ずに買うのをやめた。ブルースもケイジャンをアレンジしたような音楽も、プロダクションは今っぽいし、なんだかどうしても軽い印象。ジャズはちょっとクラシックすぎるし、買ってもおそらくたまにしか聴かないだろう。いずれにせよ、Dr. Johnの地平ははるか彼方でした。

Cimg1223 そのあと川沿いの水族館に行ったのだが、月曜日で閉館。仕方がないのでその近くにあるカジノにひまつぶしに行く。中はとってもゴージャス。Cimg1284 写真は撮れなかったけど、セクシーな格好をしたほんとにセクシー系美人のお姉さんがカクテルを運んでいるのがテンションあがる。ひとまず最もやり方が簡単そうなスロットに行き隣の人の様子を観察。ふーむ。

挑戦はどうやら5ドルから。でも5ドル札が見つからないので、10ドル札を仕方なしにいざ投入。途中色の違う7が揃ったかなんかで1ドルをゲットしたものの、僕の残高はものの2分のうちに無事0に到達。なんのドラマもなく、10ドル札はミシシッピ川のもくずとなった。つ、つまんねー!と思いつつ去ろうとすると、実は僕の挑戦した台はHOT 40なる最近当たりの出ている台だと判明。しかし、どうやら熱かったのは昨日までだったのではないかと冷静に推測し、あっさりと出る。

実際、カジノの良いところはトイレがきれいなところぐらいである。僕の好きな土手にあるトイレは普通の神経では使用不可能なくらいやばいけど、そこから500mほどにあるこのカジノの便所は別に用がなくても座りたくなるくらいぴっかぴか。よほど搾取なさっていると見える。

Cimg1262 そのあとは、昨日ベリー・レイと会った土手でのんびりミシシッピ川を見てた。1時間半くらい眺めてた。そのときがこれまで1年間の時間の流れとは明らかに違うと実感したときだった。これぞ旅のぜいたく。

そのあとは、フレンチクォーターにあるアートギャラリーを一瞥しつつ、5時前にバス・ディポに向かって歩き始めた。まだ青い空がのぞいている時間なのに、すでに通りにはエッチな下着姿のお姉さんが客引きをしていた。これを期待して通ったわけなんだけど。ぜひ今度また行ってみよう。

Cimg1291 バスディポのサブウェイでチキンサンドを食ったあと、また一路西へ。バスの搭乗時間の19時に外はまたも滝のような夕立ちとなった。バスはかなり気に入ったこの街を出て、インターステイトへ。湖のど真ん中を、沼の中を抜けていく。そのうちにゆっくりと晴れ上がって、夕焼けとなった空は本当にでかかった。Cimg1299 この空のでかさは、周囲に何もないこともあるかもしれないけど、ずっと先まで大地が続いてるっていう頼もしさのせいなのかもしれないとも思った。この旅に出て良かったなーとこのときつくづく実感し、なぜか山登りしたいと思った。思いつくところではキリマンジャロあたりに登ってみたい。きっと、親父に聞いたら山をなめるなって怒られるだろう。

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Hopefully, on the road③

New Orleansでの興奮

8月3日。Alabama州Mobilでの乗り換え以外、かなりの勢いで爆睡した僕は予想以上のコンディションで朝を迎えた。バスディポのトイレで顔を洗い、外に出るといかにも南部らしい強い朝日にわくわくする。New Orleansだ!朝7時で特にやることもないので、フレンチクォーターとリバーウォークあたりを散策し、写真をたくさん撮った。

Cimg1224 Cimg1237_2 そして朝9時ころcanal streetで朝マック。ゆっくりと一時間くらいかけてこの日記を書く。ワシントンから1時間ずれているということに、ようやくこのときに気づいて時計も修正した。

Cimg1244_2

その後朝11時にMarquette Hostelまで行き、チェックインを済ませる。一泊20ドルちょっと。日射病みたいになるほど汗をかいていたのに昨日はバスで寝たため、待望のシャワー。全身洗うとほんとに心まできれいになったような気になる。今夜2日ぶりにベッドで眠れることもなんとも心強い。

その後僕はニューオリンズについてもガイドブック等を持っていないため、てきとうにホステルの中庭にいた人に話を聞いて、簡単な地図もゲット。ひとまず、フレンチクォーターの”ガンボショップ”でご当地ランチを食べることに。

ガンボショップでは「何かお勧めありますか?」と聞いたら、「このあたりのガンボね。」といわれ全体の半分くらいのメニューを指示された。そもそもガンボって何なんですか?そんなにいっぱいあるものなの?っていうレベルの僕なのだが、ガンボショップに入店しておいてそこを尋ねるのは失礼な気がしたのでなんとかコンビネーションという二つの味が同時に楽しめるやつにした。これ。

Cimg1252 片方は豆。片方はエビ。で真ん中あたりにジャンバラヤ。これがなかなかイケる。特にエビの方はスープがとっても濃厚で、やっぱりフランス料理の影響を感じる。

その後、U.S. old mintというところにジャズを聴きに行った。何でも8月4日がLouis Armstrongの誕生日(彼はニューオリンズで生まれ育った)ということで8月1日から3日まで”Satchmo Festival”なるフリーの野外フェスが行われているとのこと。そこでは炎天下の中、異様な盛り上がり。Cimg1261 地元密着型フェスなので、もちろんニューオリンズミュージック素人の僕が名前を知っているような人は出ていなかったと思われるが、本場仕込みとあってさすがに演奏のレベルが高い。そしてやはり客の年齢層も微妙に高い。やはり若者のメインストリームはヒップホップとかなのか?ちなみに僕の個人的なヒットは、ものすごく歌唱力のある女性歌手(全員だけど)がうたったI will surviveでした。超グルーヴィーで、おばさま方が一斉に踊り出しました。

http://www.youtube.com/watch?v=Xv6lHwWwO3w

この界隈はバンドがいるカフェもとても多くて、歩きながらどこからともなく聞こえてくる音楽が非常に良いCimg1258。フェスでかいた汗を乾かすために入った超有名らしいCafe Du Mondeでもおつきのバンドが。 このバンド、アジア系の女の子のヴァイオリンの音色がすごく良い。てか写真右側でまったり聞いているのは店員さんなんですが。ここの店員は客前でまったりしすぎなのではという懸念がありました。

その後、フレンチ・マーケットでぶらぶらしつつ数珠の腕輪を買ったり、どっかの生演奏でRolling StonesのTime is on my sideをやっててそれがすごく良くて聴き惚れたりしていたのだが、それにも疲れたので休憩がてら土手へ。

ここで隣でビールを飲み始めたおっさんと座り話をした。おっさんの名はベリー・レイ。元アリゲーターのブローカーで、今は退職をしたのでテレビを見たり、わざわざ土手まで来てビールを飲む毎日を過ごしているとのこと。わに革貿易の仲介人ってことか。いろいろてきとうに話をしたあと、「僕も将来、貿易にかかわる仕事がやりたいんだ」と言ったら、「きみは一見したところ、非常に賢そうだから成功する。」と言われた。「なんせ、international educationを学ぶくらいだろ?」って。いや、international relationsですという声は全く届いていなかった。僕はそもそもinternational relationsっていう専攻の発音がとても苦手である。"internal relations?"とか言われて、数回聞きなおされる。だが、おっさんは実のところ耳が悪い。僕の名前を3回くらい言ったのに、「トーレス?!トーレスって言うんだな?!星みたいな名前だな。最高にクールじゃないか。」と発言。そんな名前の日本人いるか。おっさんには最後にこう言われた。

「日本にはかわいい女の子がいっぱいいると聞いている。ベリー・レイからよろしくと伝えておいてくれ」と。

僕からもよろしくお願いします。

夕方、もう一度Satchmo Festをのぞいたのだが、すぐに体力が尽きたのでひとまずホステルに退避。チキンサンドとバナナを食べつつビールをいただく。ホステルの中庭でこのときあったおっさんが実はAtlantaからのバスで僕の後ろにずっと座っていたことが発覚。It's a small world!とか言って盛り上がりを見せ始めたが、僕にはこの日おっさん的な要素は十分なような気がして、トークもほどほどにもう一度街に繰り出した。夜のバーボンストリートを見るためである。

Cimg1267 バーボン・ストリートはバー・ライブハウスが7割、残りの3割がストリップという歓楽街。ベリー・レイいわく、この通りは完全に観光地化しており、ビールの値段は地元のバーの2倍。ミリオネアでもなければ行って楽しいところじゃないといわれたけど、ひとまず押さえておくべきなのではと判断した。ひとまずPreservation of Jazzというバーに入ってビールをいただく。

Cimg1269 ビールは一杯$7.75。やっぱり高い!ここは演奏はうまいし、品も良いのだが、一方で客の入りがとっても悪かった。日曜日、そしてまだ22時ってこともあったのかもしれないけど。それでも超盛り上がっている他のロック系のバーに比べたら非常に地味。とりあえず、ジャズバーのカウンターに座ってビールを飲む自分という構図にだけはたっぷり酔いつつ適当に退散。

その後、この界隈をぶらぶらしていたのだが、さすが悪名高いといわれる通りである。ストリップの入り口では、とてもエッチな下着姿のお姉さんたちが外まで出てきて客引きをしている。子供づれの観光客の対応が観ていて面白い。また、バーボンストリートのバーは基本的にストリップ以外は、窓が開け放たれていて、中がのぞけるとともにちゃんと音楽を確認してから入れることがとても良いと思った。Thin LizzyのBoys are back in townとかをやってるバーに入りたくなったり、Blue Mondayが流れているストリップに非常に惹かれたりしたのだが、てきとうに流すだけにしておいた。ロック系のバーに関しては、トラディショナルなジャズなんかをやってるところに比べて、音がいやに厚かったり、ボーカルの味にかけたりしていて、どうしても軽く思えた感があった。その点、ポップさと上品さのバランスが非常に良かったように思えたのが、Funky522というファンクのバー。Let's get it onってやっぱりいつ聴いてもテンションあがります。

ということでホステルに戻ってきたら12時少し前。1か月ぶりくらいにビールを飲んだので胃のむかつきを覚えながらも深い眠りについた。そんな夜。

The Band feat. Dr. John, "Such a night"

http://www.youtube.com/watch?v=Yu4Fg5Me-z0

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Hopefully, on the road②

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Atlantaでの日射病

8月2日13:00。Atlantaに到着。ここが最初の目的地である。着いたは良いものの僕はガイドブックどころか地図すら持っていなかったので、バスディポを出てうろうろしているとさっそく黒人ホームレスのTreyにつかまる。彼は地図があるところまで僕を連れていき、アトランタの見どころがどんなところにあってどうやって行けるのか一通り教えてくれた。時間がないことを伝えてしまったので、「それなら俺が一日お前のガイドになってやる。」との申し出。いらん。でもけっこうしっかり説明を聞いてしまったのでひとまずお札に1ドルチップを払って別れようとした。そしたら「これじゃあホットドッグも買えない!そこの店は3ドルするんだぞ!」とちょっと苛立ちながらくらいついてきた。これは怒らせたらまずそうなタイプだと判断し、3ドルせがむところをもう1ドル払って手を切る。もうお金は一切払うまいと心に決めるには良い洗礼だった。

ひとまずTreyの教えてくれた通りCentennial Olympic Parkまで行き、昨晩慌てて作ってバックパックに入れてきていたシャケのおにぎりを食べる。う、うまい。自分のおにぎりの才能に脱帽。

Cimg1196 Centennial Olympic Park-96年のアトランタ五輪の広場。開催中にテロが起きた。

その後The world of Coca ColaとCNN centerという世界企業の本拠地さながらの名所を訪れようとしたのだが、どちらも土曜と言うことがあり、見学には長蛇の列。僕にはそれを待っている余裕はない。そこで趣向を変えて、Martin Luther King Jr.の記念地区へ行くことに。

売店でもらった地図をもとにCentennial Parkから歩いて行ったのだが、ダウンタウンの東側はお世辞にも治安がいいとは言えなかった。公園はホームレスに占拠されているし、道を歩いていると黒人住民のほぼ全員が何かしら声をかけてくる。崩れかかった家も点在。典型的なゲットーってやつだ。King自身はおそらくそれなりに良家の生まれなのだろうが、こんな地区で生まれたのかと興味しんしん。Cimg1205

高速道路の高架近くにある崩れかかった家。

Kingの記念地区にあるVisitor CenterやFreedom Hallを回ったのだが、そこを訪れている客も8割は黒人だった。白人はほんとに数人、ラティーノすらそれほど多くない。これって黒人がそれなりにツーリズムできる時代になったっていうことなのか、あるいは白人にとっては未だに精神的に少し敷居が高い観光地なのかよく分からなかった。

Visitor Centerでは30分くらいのショートフィルムを見た。Kingの生涯について。貧困と人種差別の撲滅からベトナム戦争反対まで自らのアジェンダを広げてしまったことがKingがリーダーシップを失った=暗殺された原因となったみたいなことを読んだことを思い出した。敵を多く作りすぎてしまったのだ。観客もやっぱりほぼ黒人。映像を見て拍手する人がいたり、観終わって外に出てみると泣いてる男の子までいた。今、黒人はバスに乗っても白人に席をゆずらなくても違法にはならないし、警察から不当になぐられることも減っただろう。だけど、この記念地区の周りを歩けば、そこにたむろす黒人はみんな僕に1ドルを求めてくるのだ。1968年の彼の死から40年経つ今、今だに自らの生家の近くがまぎれもない”ゲットー”であることを彼は想像していただろうか。

Cimg1207 Visitor Centerの展示

そのあと、南北戦争の絵があるとかいうGrant ParkのCycloramaへ向かった。かんかん照りの猛暑、バックパックの重さに慣れていないこともあって、この辺りからものすごい汗と頭痛に悩まされる。バスではよく寝たはずなのに。ダウンタウン北東部とは打って変わって閑静な住宅地を過ぎ、Grant Parkの中でCycloramaをようやく見つけたのは17:10。16:30の閉館から40分も過ぎていた。

仕方がないので休憩と夕食のために、公園の近くにあったイタリアンレストランに入った。ここで、何人なのか全く分からないけどアジア的なエキゾチックさ溢れるウェイトレスがとても親切にしてくれた。音楽の趣味もとても良かった。彼女がサーブしてくれたコーラ3杯とバファリン1錠という荒療治によって、日射病だと思われる頭痛がようやく和らぐ。食事は全部食べられなかったけど、少し楽になったのでGreyhoundのバスディポまで戻ることにした。

ディポについた直後に突然の大雨が降りだした。夕立ちだ。僕は夕立ちが基本的に好きなので、ラッキーだと思いつつまた少し元気になる。1時間ほど出発が遅れたバスは21:30くらいにようやくAtlantaを出発した。

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Hopefully, on the road①

11日間にまたがる旅行から戻ってきました。旅では日記をつけていたんだけど、一人旅で日記を付けるのってほんと理にかなってるなーって思いました。移動の際の待ち時間とか歩き疲れたときとか、その日のことを思い出して書いていると自然と楽しくなるし、自然とまた足も動き始める。その日記をもとに旅のことについて書いていきます。

Washington DCからの出発

8月1日。一日の仕事を終えてWoodley Park/ Adams Morganのアパートに帰ってきた後、この夏を同じアパートで過ごしてきた友人たちとお別れした。アメリカ人のジェシーは「うどんの作り方を教えてくれてありがとう」と言った。僕は、彼にはあまりにいろいろなことを教えてもらったので逆に何も言えなかった。グラマーとか言葉の用法のミスとか彼みたいに根気強く指摘してくれて、かつeasygoingなアメリカ人は周囲にはほかにいなかった。ケニア人のオティアーノ・オルワは「日本から車を輸入するから連絡待っててくれ。See you soon.」と言った。彼とはよく開発をめぐる国際機関の功罪について本気で議論したし、あまりのうるささによく笑わされた。ジェシーは家族と大西洋の島で残りの夏を過ごし、秋はベルリンで過ごす。オルワはPan-African Studiesと国際関係のジョイント・ディグリーという特殊なコースのため、すでに2年間過ごしたというシラキュースに戻りもう一年過ごすことになっている。中国人のジーチョンとは旅行後にもう一度会うことになっている。彼はこの秋もワシントンDCに残る。アメリカでの就職が彼の希望だ。

彼らにお別れを言いつつせかせかとシャワーを浴び、荷物をまとめ、アパートを出たのは20:20。Greyhoundのバス停があるUnion Stationヘ地下鉄で向かう。Union Stationからバス停までの行き方がわからず、早速その辺にいたインド人らしき人に道を尋ねる。3か月も住んでいたDCのど真ん中なのに!インド人の彼はとても親切にわざわざ駅の反対側の出口まで僕を案内してくれた。彼はニューヨークで大学院に通っていて今はワシントンの友人を訪れているらしい。彼に日本人だと言ったら、「でも英語がすごく上手い」と言われたのが嬉しかった。1年間かけて少しはマシになったのだ。

ワシントンノGreyhoundのバス停は、だいたい6割が黒人、3割がラティーノ、判別不能を含めたその他が残りという感じ。僕の列は直後の白人一人を除いて前後40人くらい黒人だった。わずかにいる白人も僕のアパートの周囲でジョギングしているような人たちとは違う。ジムに通ってるような雰囲気もなければ、服も明らかに良いものではない。

バスに乗ると、僕の直後に並んでいた白人の少年が隣に座ってきた。バスでは彼が唯一の白人、僕が唯一のアジア人だからだろう。それに僕は少なくとも米国においては赤の他人にわりと信頼されやすい気がするし。話してみると彼はロシア人で英語から明らかに滞在期間も短いことが分かった。彼は勉強と仕事を両方するプログラムでアメリカにきているらしく、モスクワから70マイル東の小さな街の出身だと言った。帰国は来月9月だという。「そりゃあいい!」と僕が言ったら、「うん、ほんとに。」となんとも言えないうれしそうな顔をしていた。帰国することってやっぱりうれしいことであるべきな気がした。

Richmondで乗り換えの際にロシア人の彼と別れ、Charlotteでもう一度乗り換え。深夜のバスは予想以上に快適。ずっと"ルージュの伝言"が頭の中でループ。そしていつの間にか寝た。

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アメリカ生活の最後に

いよいよ8月。昨年7月からはじまった僕のアメリカ生活も終わりが近付いてきた。

少し前に職場の上司と話をして、僕がこれまで冬季や夏季の授業、インターンを含め本当に間髪を入れずに過ごしてきて、アメリカ東部の都市しか行ったことがないことを話したら、来週一週間まるまるお休みをもらえたので、明日金曜日の仕事が終わり次第、そのまま夜行バスで旅行にでかけます。今回は一人旅です。

思えば、ワシントンDCに来たあと、夏のさんさんとした太陽のもとでずっとどこかに行きたいと考えてました。でも行った先はワシントン市内やメリーランドやヴァージニアのご近所だけ。毎日職場でも家でもニュースに浸かりきる癖がついてしまっていて、ちょっとジェネラルな情報過多な気もしていました。そんなことも含めて、アメリカを去る2週間前というほんとにいいタイミングでこのような機会をいただけたことに心から感謝しつつ、たぶん、できたら楽しんできます。

バスの乗車がとても長くなりそうなので日記でもつけつつ、帰り次第旅行記をアップしたいと思います。ではまた10日後くらいに!

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